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by chekosan

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アウシュビッツ強制収容所の第2収容所ビルケナウは、第1収容所から3キロほど離れたブジェジンカ村に造られました。

レンガ造りの建物から鉄道の引き込み線が長々と続いている有名な場所はこちらのビルケナウです。


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第1収容所からは、シャトルバスで無料で移動できますが、あとで博物館が出しているガイドブックを見て、徒歩で周囲を見ていけば良かったかなと思いました。

歩いて移動すると、囚人たちを強制労働させていたドイツ企業の工場や作業場、付帯施設などがあったところや、列車で連れてこられた人々が選別された側線と特設ホームのあとなどが見られるようです。

ビルケナウは、大量虐殺を目的とした施設です。第1収容所では収容しきれなくなってきたため、アウシュヴィッツの近くのブジェジンカ村の住民を立ち退かせ、家屋を解体して収容所を造ったのです。

ビルケナウは、アウシュヴィッツ第1収容所に比べると、はるかに広大です。

線路に沿って奥へと歩いていきます。

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奥へ向かって右側には、暖炉と煙突だけが立ち並んでいます。


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左を向くと、少し建物が残っています。


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進んできた道を振り向くと、あの光景、「死の門」です。


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列車が進んでいく方向、収容所の奥の方向です。見学者が進んでいく方向に黒いものが写っています。人々を満載にしてきた貨車のひとつです。



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こういう窓もないような貨車に詰め込まれ、立ちっぱなしで、飲食も休憩もできず、ここまで運ばれてくるのです。途中で亡くなった人もたくさんいました。

なかには、床板を抜いて決死の脱出をした人もいましたが、走る列車から落ちるわけですから、大けがをしたり亡くなったりします。助けた人も処刑されますから、助けてもらえることは稀だったようです。そうした話は回想録などによく出てきます。



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ビルケナウはいかにたくさんの人を効率的に殺すかを追求した施設です。大型のガス室4つもこちらにありました。しかし、そのうち一つは作業員たちの反乱で破壊され、残りもSSが退却するときに証拠隠滅のため破壊されました。

いまは、潰れた残骸しかありません。


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「死の門」を背にして右の奥のエリアには、死体を野焼きにした林や、砕いた骨を撒いた池があります。映画「サウルの息子」でも出てきます。ガイドさんとの見学では、その一帯には行きませんでした。残って見て帰ればよかったです。


別の筋を「死の門」方向に向かって戻ります。

かつて木造のバラックがたくさん建っていたところには、今は基礎部分と、暖炉と煙突しか残っていません。

撤収後もここに残った囚人の人々が暖をとるために燃やしたり、戦後に近隣の村民が建築資材として解体して利用したりしたからだそうです。


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つづく



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by chekosan | 2018-02-23 21:42 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
アウシュビッツ第1収容所は、そのあたりの強制収容所のセンター的な機関でしたが、規模としては小さいです。小さくて収容しきれなくなったから、近くに巨大な第2収容所(ビルケナウ)をつくったのです。

門をくぐって少し歩けばすぐ端まで来ます。でも、電気の流れる鉄条網と監視塔があるので、逃げることはできません。


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この監視棟の手前の一画は「死のブロック」と呼ばれていました。
政治犯などを形だけの裁判にかけたり、地下牢に閉じ込めたりした棟と棟の間には、「死の壁」と呼ばれる処刑場があります。



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壁は復元だそうです。普段は花が手向けられていることが多いそうです。旗は、あのパジャマみたいな縞模様の囚人服と同じ色です。



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左右の建物の窓には目隠しをしたり、銃殺には消音の銃を使ったりしたそうですが… 
この閉鎖的な収容所内で隠せるようには思えません。



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ガイドさんからは特に説明がなかったような気がするのですが、「死の壁」近くにある、この木の枠(下の写真)は、絞首刑のためのものかと思います。映画「ソフィーの選択」で、複数の人が吊られているなか女囚たちの点呼が行われるシーンがありますが、そこじゃないかなと思います。


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絞首刑場の近くにある見張り台らしきもの。


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収容所の逆の端には、ルドルフ・ヘス所長が戦後、絞首刑になった場所が保存されています。



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この絞首刑場に向かって立って、首を右に向ければ、ヘス所長一家が住んでいた家が見え、左に向ければすぐそこにガス室があります。つまり、ヘス所長一家は、ガス室のごく近くで生活をしていたのです。

そのことはアウシュヴィッツを扱う本などで読んで知ってはいましたが、予想以上に近いなと感じました。住宅街のひとつの筋から次の筋までくらいの距離です。

下の写真は、柵の隙間からヘス所長の家を撮ったもの。左の木の奥に見える建物です。もともとあったポーランド人の民家を借り上げた(取り上げた?)ものだとか。この区画は入れませんが、普通に肉眼ではっきりわかる距離です。


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そして、首を左に向ければ、すぐそこにガス室。下の写真に写っている階段を上がるとヘスの処刑場です。
ヘスは、多くの人を殺害したガス室のすぐそばで処刑されたわけです。




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模型にもなっていた大規模なガス室は第2収容所(ビルケナウ)で、第1収容所のガス室は大きさだけでいえば、日本の公共の火葬場よりも小さいくらいです。いや日本の火葬場のサイズもいろいろでしょうが。


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内部も公開されています。撮影も許可されています。

左上に写っている天井の穴からガスを発生する殺虫剤を入れました。


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ガス室のすぐ隣が火葬場になっています。ここは天井も柱も真っ黒です。


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ガス室から、ヘスの住んでいた家方面を見た図です。


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第2収容所(ビルケナウ)見学につづく。




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by chekosan | 2018-02-22 21:49 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
さて、標準的な見学コースでまず見るのは、ここが絶滅センターであったことを示す展示です。


アウシュビッツ強制収容所のメイン施設には、収容者から没収した大量の日用品などが展示されています。ほかにも収容者の写真や、当時の写真、記録の一部なども展示されていますが、なんといってもここの最大の特徴、象徴は、この遺留品に尽きるといえるでしょう。


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ここで亡くなった人たちの人骨(粉)の入った壺です。


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撤退時に破壊されて瓦礫しか残っていないアウシュビッツ第2収容所(ビルケナウ)のガス室模型。
地下の「シャワー室」に押し込められてガスで殺され、上の階で焼却されます。
あとで見たアウシュヴィッツ第1収容所に現存する小ぶりのガス室とは構造から違います。


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ガス殺につかった「チクロンB」の粒と空き缶。

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そして、収容者から没収した大量の日用品の数々…

メガネ。

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鍋釜食器類。

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クリームなど。


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ヘアブラシ類。取り上げる意味がわからない。

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靴、靴、靴… 小さな子どものものも… 


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こうして履きなれた靴を取り上げておいて、収容者には木靴を履かせていたのです。過酷な労働をするのに木靴。寒いときは氷点下20度以下にもなる湿地で木靴… パジャマみたいな薄い囚人服に木靴…


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カバンの山。出身地や名前が書かれているのに、引き取り手がないのは、本人や親類縁者がみんな亡くなっているからです。

遺品を展示している部屋は、窓にピンクのシートを貼っていました。劣化を防ぐためかなと思います。

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刈り取られた大量の髪の毛も展示されています。遺体の一部ということで、その部屋は撮影を控えるように言われました。三つ編みそのままのものもあります。髪の毛はカーペットなどに加工されたということです。今も残るものは、経年劣化で色が褪せ、灰色の羊毛フェルトのようになっていました。



もっとも胸に迫った展示は、大量の義足やコルセット、松葉杖などの類です。

靴やカバンや鍋釜は持ち主の手を離れることもあるでしょう。しかし、義足が持ち主から離れるということは、つまり持ち主がそれを使わない、使えない状況になった=亡くなったということをまぎれもなく示しています。これらが必要だった人は、労働できないとみなされ、即刻殺されてしまったのでしょう。


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つづく。



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by chekosan | 2018-02-21 17:24 | 博物館、資料館 | Trackback | Comments(2)
今回の旅の目的は、アウシュビッツ強制収容所跡を訪ねることでした。

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同博物館公式ガイドである中谷剛さんに連絡をとり、2月6日の午前9時から約3時間、案内していただくことになりました。

10分前集合に間に合うよう、クラクフのバスステーション(駅と隣接)を7時に出発するマイクロバスに乗りました。

バスステーションの有人窓口は7時にしか開きませんので、電光掲示板で出発場所を確認し、運転手さんから直接チケットを購入しました。片道69.3キロ、12ズオティ(その日のレートで406円)でした。



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博物館見学者だけでなく、普通の路線バスとして使う人もいて、途中での乗り降りもありました。マイクロバスはかなり狭いです。

帰りは大型バスに乗りました。こちらは片道14ズオティ(474円)でした。やはり大型バスの方が格段に楽です。

博物館前に着くと、運転手さんが ’Museum!’ と何度か声を掛けてくれました。え、ここ?という感じで数人が下車。私たちが乗った便は、意外と見学者よりも地元の人の割合が高かったみたいです。

2月は極寒期で、見学者は比較的少ない時期ではあるようですが、それでも8時半ごろに着いたら、受付はすでにたくさんの人でした。公式の案内には、2月ならガイドをつけなくても見学できるようなのですが、実際には、個人で見ている人はいなかったような…? 未確認ですが。



集合までに少し時間があったので、戸外の案内板をすべて見て行きました。まずは、この博物館の設立趣旨や寄付者(国)のことば。

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駐車場から受付までの道には、アウシュヴィッツと、その支所であるビルケナウが解放されたときの写真(連合軍が撮影したもの)。



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これらを一つ一つ見て、撮影して、受付の建物へ。この日の日本語ツアー参加者は12人?くらいでした。

受付の建物も当時から使われていたようです。いまはセルフサービスのレストラン、ブックショップ、軽食の売店、郵便局、トイレ(有料、2ズオティ)などが入っています。

※東欧はトイレは有料のことが多いです。小銭必要です。そのかわり係の人が番をしているので清潔で安心です。有料のトイレには手を拭く紙なりタオルなり乾燥機なりがあります。



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受付では、セキュリティチェックがあります。A4サイズ以上のかばん類は持ち込めません。受付手前の別の小さな建物に預ける必要があります(4ズオティ)。私もリュックは預けて、小さなポシェット一つになりました。

コートまでは脱がなくていいのですが、金属探知機を通ります。液体の持ち込みにも制限があります。

チェックを通過したところで、レシーバーとヘッドフォンを受け取ります。ガイドさんの声が直接ヘッドフォンで聞けるので、少しくらい距離が空いても大丈夫です。このシステムはとても良かったです。耳もあったかいし(笑)

受付の建物を出たところです。ここから博物館内(強制収容所の内部)に入っていきます。



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朝のアウシュヴィッツは寒い! 集合前は日本のみなさんと口々に寒い寒いと言い合いましたが、見学の大半は室内ですし、この日は晴れたので大丈夫でした。でも帽子やマフラー、ブーツは必須です。地面は凍っています。


有名な門をくぐります。「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」の文句は、ほかの収容所にも掲げられています。

かつては、3つめのBの文字が上下逆になっていると言われていましたが、研究の結果、これは当時の流行りの字体だったということがわかっているそうです。

※そう聞いてネットで検索してみたら、テレジーン強制収容所の同じ文句もBの上の方が大きかったです。




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門から先は収容所になります。二重の鉄条網が逃亡を阻止します。煙突がたくさんあるのは厨房(再現)だそうです。厨房の内部には入りませんでした。



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門を背にして進むと、煉瓦の瀟洒な建物が続きます。ガイドさんもおっしゃってましたが、これだけ見ると大学のキャンパスか何かのようなのです。


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建物の番地が入ったランプのデザインは、クラクフの街中でも見ました。パッと見だと普通のお家のようにも見えます。


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さて、いよいよ展示を見ていきます。


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つづく。


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by chekosan | 2018-02-20 14:58 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
スピルバーグ監督の名作「シンドラーのリスト」を昨年ようやく観ました。やはり名作と言われる作品は名作だわと感心し、ひとしきり授業で学生にも勧めました。

オスカー・シンドラーはチェコスロヴァキア生まれのドイツ人。ナチス占領下のポーランドのクラクフで、傾いた工場を買い受けてホーロー製品や軍需品を生産して大成功をおさめ、自分の工場で多くのユダヤ人を雇用し、終戦間際には労働者ごと、ごっそり故郷に工場を移転するという方策で彼らの命を守った人物です。

そのあと、友人とアウシュビッツを訪ねる旅の話が具体化したので、シンドラーの経営していた工場(いまは博物館になっている)も訪ねてきました




トマス・キニーリーの原作は旅の途中から読み始め、帰ってから風邪で寝込みながらちょっとずつ読み進めました。ううむ、これも力作。非常に具体的で面白い。なぜこれが絶版になっているのか。まあ、おかげで(?)、中古で1円から入手できるわけですが…

クラクフの街はさほど歩けなかったのですが、それでも、本書に出てくる地名や位置関係がわかるようにはなったので、読みながら臨場感が得られました。

文庫版で600ページを越える大部の著作で、昔の版ゆえ字は小さく行間も狭く、面白いのになかなか終わらないですが、でもページを繰る手は止まらないという本です。

生存者の証言が得られた部分は明確にそう記述し、想像の部分は想像として書き分けているのも良心的です。シンドラーに関しては、肯定的に、魅力ある人物として描いていますが、プレイボーイぶりや賄賂のだしっぷりなども余さず書いています。

プワシュフ強制収容所所長のアーモン・ゲートに関しても、非常に(異常に)サディスティックな人物であることははっきり書いていますが、ある種の魅力も備えていたようにも描いています。

単純に善人、悪人という「キャラ付け」にはしていないのが、ノンフィクション作品としての面白さを増しているように思います。


スピルバーグの映画は、それでも3時間くらいある長い映画ではあるのですが、だいぶ原作を端折っています。印象に残る「赤い服の幼女」も、あんないたいけな女の子が、あああ…(´;ω;`) というイメージで使われているだけですが、原作では名前や出自などがていねいに紹介されています。

シンドラー以外にも、ユダヤ人を守るためにギリギリのところまで頑張った非ユダヤ人の工場経営者や軍人がいた話も、原作にはたっぷり紹介されています。

とはいえ、映画は映画で、ゲットーへ追い立てられるユダヤ人の悲劇、そこからさらに強制収容所に行かされ、理由なく殺される非道さ、シンドラーのダンディーで社交的で大胆な振る舞い、シンドラーとユダヤ人との交流がビジュアル的にわかりやすく描かれているので、やはりあれはあれで名作だと思います。


ところでですね、私が入手した本、カバーはこのように『シンドラーのリスト』となっていますが、


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カバーをめくりますと、あら! 『シンドラーズ・リスト』です。
もともとは『シンドラーズ・リスト』で出版し、映画がヒットしたのでカバーだけ変えたのでしょうね。しかし、ちょっと紛らわしい…


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クラクフのユダヤ人が連れて行かれたプワシュフ強制収容所跡には残念ながら行けませんでしたが、ゲットーだった地区はうろうろできました。ほんの一部だけ残るゲットーの壁も見てきました。その写真はこちらをどうぞ

シンドラーがユダヤ人1200人を連れて移設したチェコの工場跡も、博物館として保存することになりました。整備や公開はまだまだこれからのようですが、公開されたらぜひ行こうと思います。





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by chekosan | 2018-02-19 14:28 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
シンドラーの工場博物館を見終わって、お昼を食べたあと、ゲットーの跡を歩きました。
といっても、当時の様子がわかるものはそんなにはありません。

まず、「英雄広場」まで戻りました。

ここは、カジミエシュ地区から移動させられたユダヤの人たちが、さらに強制収容所に移されるときに集合場所になったところとか。

追い立てられた人々が手放さざるを得なくなった家具や持ち物が散乱していたのを象徴するオブジェとして、椅子がいくつも配置されています。



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写真中央の二階建ての建物が、市の博物館になっている「鷲の下で」薬局跡。

この薬局はポーランド人のタデウシュ・パンキエヴィチが経営していたもの。
彼は非ユダヤ人なのですが、この場所での営業の継続を認められ、ゲットーのユダヤ人をたくさん救ったそうです。
戦後、その功績を称えて「諸国民の中の正義の人」として表彰されています。




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月曜も開館していましたが、13時半までに入館しなくてはならず、着いたときには10分ほど過ぎていてダメでした。アクセスしやすいところだからまた来ればいいやと思っていたら風邪でかなわず… 残念無念です。

パンキエヴィチはシンドラーと並ぶクラクフのユダヤ人救出の二大有名人という扱いでした。本も何種類も出ていました。漫画を買って帰ったので、また読んで感想をアップしようと思います。(^▽^)



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ところで、旧ゲットーも、後日歩いたカジミエシュ地区(旧ユダヤ人地区)も、なんとなくですが、Apteka(薬局)が多いように感じました。何か関係があるのでしょうか。

さて、旧ゲットーとはいっても、それをしのぶような建物などはさほどありません。お昼ごはんを食べながら、シンドラーの工場跡で買った『Jewish Cracow』という小さいけどわかりやすいガイドブックで確認しましたが、このポドグジェ地区で見れるのは下の写真の1~5番くらいなもののようです。



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ゲットーを囲んでいた塀を見て歩くことにしました。地図の4番と5番です。
2番と3番の建物は中には入れないっぽい(未確認)のと、方向が違うのでやめておきました。

ちなみに6番はシンドラーの工場跡、7~11はプワシュフ強制収容所跡です。


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まずは4番の壁。Lwowska通り25-29番です。
クラクフのゲットーの壁は、ユダヤの墓標の形をしているのが特徴です。
お墓の形で居住区を囲むとは、なんという圧迫。悪趣味な…

とはいっても、街の中に残っているのは、これだけです。ホントにこの写真に写っているこれだけ。



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街を分断し、人々を隔離、抑圧、差別した壁を残すわけにいかないでしょうが、しかしこれだけか…という気もしなくはないです。



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もう一箇所、学校の背後にも残っているとあります。そちらにも行ってみました。住所は Limonowskiego通り62番。

学校と公園の境界に使われているようで、柵はありますが開いていて入っても良さげだったので間近に行ってみました。塀の奥は天然の崖になっていました。



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ちなみに崖の上にはレンガ造りのベネディクト要塞がそびえ立っています。そこも余裕があれば行ってみたかったのですが、ぐるっと回らないと登れなさそうだったのでやめておきました。

ここまで来ると実はプワシュフ強制収容所跡もあとちょっとの距離なのですが、どんどん街のはずれ感が増していくので、日を改めて、、、と思っていたら発熱でポシャってしまったのでした。(^-^;



つづく。


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by chekosan | 2018-02-18 18:00 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
行ってきましたポーランド。夏のリトアニア旅行記が半分も書けていないのに(^^;)

でもまあリトアニアでの収穫は、まもなく発刊される紀要にまとめたので(追記:オンライン公開されました)、記憶が薄れないうちにポーランド行きについて記録しておくとします。


今回は、子連れではなく、学生時代の友人と一週間。
一番の目的地は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所跡です。


(1)航空券

夏に気に入ったフィンエアーにしました。
一応ほかも見たのですが、関空=クラクフ往復の乗り継ぎのタイムスケジュールも一番良かったので。

ただ、冬だからか便数が少なくて、前後の用事などとの兼ね合いもあり、
2/4-10の1週間、つまり現地では4日しか取れませんでした。
この日程はちょっときつかったです。

出発直前まで授業、成績、原稿などが山積みで(成績は一校まだ残っている…)、
旅行3日目は丸々ダウンしてしまいました… 
一度元気になったのですが、帰宅後、再度ダウン。

やはり旅の前にはちょっと心身を整える余裕が必要だと痛感しました…

さて、飛行機のチケットはメッセンジャーで連絡し合いながら、同時に公式サイトから取りました。
関空=ヘルシンキ便は往復とも非常口のところにしました。
フィンエアーは座席指定が数千円くらいでできるので、やらない手はないと思います。

非常口のところはやっぱり楽!!
私は、「プレミアムエコノミー」よりもよほどいいと思います。

非常口の席に座るには、12歳以上であること、英語ができること、非常時に緊急脱出の手伝いをすることが条件となります。昔は身長も条件にあったような気もしますが、それは不問なので、堂々と申し込みました(笑)

非常口の次におすすめな席は、その隣の最前列。ただ、ここはトイレのために前を横切ろうとするお客さんが多い時には落ち着きません。なかにはテーブルを出しているときでも無理から通ろうとする人もいるんです…(-_-;) でもこの列には年齢制限はないので、家族で行くならここかなと思っています。

※オンラインチェックインのときに、ヘルシンキ=クラクフ便は、私だけなぜか非常口のところに無料で指定されました。フリークエントトラベラーと認定されたからでしょうか。でも2時間ほどのことだし、一人で非常口のところというのも心細いので、友人の隣の席に変えました。


(2)宿

Booking.com でアパートメントタイプの宿を取りました。

中心地から近いこと、公共交通機関からも近いこと、2ベッドルーム、バスタブ、キッチン付きなどにこだわって検索しまくりました。バスタブ有り物件がなかなか見つからなかったのですが、ここはバッチリ、巨大なバスルームと、サブのシャワールームまでありました。つまりトイレと洗面も2か所あったということです。

それで5泊で4万3千円ほど。一人2万円少し。大ヒットでした。宿の詳細はまた別途(多分)。


(3)お金

一応、日本円をある程度持っていきました。クレジットカードはときどき使い方わからないだの反応しないわだのと言われるのです。結果的には、今回はカードがうまくいったので、現地で両替したのは、なんと1万5千円だけでした。


(4)下調べとスケジュール

全体の日程がタイトなので、クラクフだけに絞りました。
アウシュヴィッツに行くのが最大の目的、あとはシンドラーのリストの舞台を見れればいいなくらいにしておきました。

風邪をひいて丸一日寝込んだので、本当にそれくらいしか回れず…

シンドラーの工場跡の博物館は初日に行きましたが、クラクフのユダヤ人たちが連れて行かれたプワシュフ強制収容所跡に行けなかったのは痛恨でした…

でも、授業でも使った英語の文献に載っていた気になる場所がクラクフにあると現地で気がつき、そこには行けました。これはたいへん嬉しい収獲でした。(別途アップ予定)


(5)撮影グッズ、通信グッズなど

またデジカメ、iPhone、iPad mini の3台持ち。これくらい持っていて良かったです。というのは、バッテリーが十分残っていても、寒さのあまり機械が動かなくなることが2回もあったのです。宿に帰ったら一瞬で直りましたが。

アウシュヴィッツでご一緒した皆さんは、ずいぶん立派なカメラをお持ちの方が多かったです。

Wi-Fiルーターは今回も時間切れで申し込みできず。でもちょっとあるといいかもと思いました。


(6)荷物

子連れでも一人でも、あまり荷物が変わらないなあと思いました。もちろん着替えは人が増えただけ増えるのですが、あとは一緒なんですよね。

行きはスーツケースが12.9キロ。

体力が落ちていたからなのか、最終日、宿(4階エレベーターなし)から地上に下ろすのがものすごくきつくて、一体何キロになったのかと不安に思いましたが、17.7キロ(?)でした。これ以上は御せないなあという感じです。(-_-;)



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街歩きには、キプリングの小さいショルダーとリュック。
リュックは楽ですね。普段使わないのでびっくりしました。
シンドラーの博物館で、目についた本をがーっと買って全部詰めましたが、ぜんぜん平気でした。

ただ、お店や乗り物で場所をとるし、担いだり外したり出し入れしたりが面倒ではありました。



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(7)防寒

上の写真のダウンはもう20年くらい前に買ったもの。関西では暑すぎるくらいで、自転車に乗るときくらいしか使わなくなっていたものです。ポーランドは寒いので、寒がりの私は、このなかにさらにいっぱい着こみました。

そうすると屋外ではちょうどいいけど、屋内では暑すぎて汗びちょに… 風邪を引いたのもそのせいか…? 
帰ってきたら自宅が寒くて寒くて… いったん元気になったのに、また寝込んでしまいました… 

足元は、雪道仕様のブーツを2足。京都大阪神戸でも真冬ならOKかなくらいのを新調しました。

ブーツとカバン類には防水をしておきました。お天気悪かったですが問題なかったです。


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それに、登山やさん(モンベル)のタウン用やトレッキング用のソックスを。


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カイロは貼るタイプや靴タイプを持っていきましたが、1つも使いませんでした。

帽子やマフラーは昔から持っているものを持っていきました。
頭を覆うものは絶対必要です。現地の人も、老若男女みんななにかで覆っています。

若いポーランド人女性がボリュームたっぷりの毛がついたフード付きコートを着ると小さなお顔によく合って、とてもキュートでした。ベレー帽とか毛糸の帽子なんかもバリエーションが多くて、いいなあ~とウォッチングしました。

お土産屋さんに毛皮の帽子も売っていましたが、帰ったら帽子なんてまったくいらないし、私は帽子が似合わないし、かぶったあと髪の毛がぺしょんこになってカッコ悪いし。かわいいなあと思いながら見るだけにしました。

手袋はスキー用も持っていきましたが、そこまでではなかったです。ふつうの布ので十分でした。


ということで、防寒を気にしていろいろ用意はしたものの、うまく順応できず、飛行機だかどっかで風邪をもらってしまい、貴重な現地での4日のうち、丸一日を寝て過ごすという失敗の旅でした。


教訓:
①やはり寒い国への旅は夏がいい
②日程はゆったりと。現地ではもちろん、旅立つ前に心身を整える時間も必要(泣)


つづく





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by chekosan | 2018-02-12 18:34 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
ポーランド旅行記がちっとも書けていませんが、先に現地で買ったマンガの記録を。
6人のユダヤ人の少年少女たちがホロコーストを辛くも逃れた実話集です。

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ニュルンベルクのハインツ少年は家族とイギリスに逃れますが、英独の開戦によって今度はスパイの疑いをかけられ、逮捕拘留されます。

チェコスロヴァキアの少女トゥルードは、一人でイギリスに疎開、15〜20箇所も預けられ先を転々としました。両親とはその後、再会することはありませんでした。

ドイツからチェコスロヴァキアへ逃げた少女ルースは、母の奔走が奇跡的に実を結び、イギリスに脱出します。リバプールの駅に降り立ったまさにその瞬間、駅の放送で、英独開戦の宣言を聞きます。彼女の一家は幸運なことにのちに皆、合流することができました。

ドイツのマルティン少年は、妹ともに「キンダートランスポート」でイギリスのコベントリーに疎開しましたが、そこでも激しい空爆を経験します。

フランスの少女スザンヌは、パリで文化的な生活を送っていましたが、ユダヤ人狩りにあい、両親は連行されます。スザンヌは隣人がとっさに自分の子だと連れて行って助かります。その後、水道も電気もない田舎に疎開し、農作業に従事します。戦争が終わったことを2年も知らずに過ごします。

ポーランドのアレク少年はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に連れていかれ、ガス室行きの列から抜け出し、なんとか生き残りますが、シラミや飢餓に苦しみます。

読みやすい英語で、一気に読んでしまいました。

ここに出てきた人々はみな生還者なので、その点は救いがあるのですが、家族や親戚や町の人とは二度と会えなかったという人が多いです。


今回の旅では、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にいってきましたが、建物や物だけ見てもなかなかその悲惨さはわかりません。

証言を残すこと、耳を傾けることが大事だと思います。

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by chekosan | 2018-02-09 03:02 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
「ナチス・ドイツ占領下のポーランドにおける、ユダヤ系も含むポーランド市民の経験をめぐる証言文学」(訳者解説より)

ナウコフスカは両大戦間期からポーランドの文壇で活躍し、戦後はナチス犯罪調査委員会の一員として市民の声を聴き集めた。それらの一部を証言を主体に編んだのが本書。

本書は最初期のホロコースト文学、ナチス犯罪文学の一つに数えられる。ポーランドでは社会主義期においても学校などで積極的に読み継がれてきたという。

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収められているのは8編。いずれも短いが、事実は小説よりの言葉どおりのエピソードが続く。

特に一編目は強烈である。いまだたくさんの死体が残されたままの解剖学研究所の検分の様子から始まり、その遺体の保存の仕方や、そこで行われていた解剖学実験の実態がさらりと語られる。

以下、家畜用の貨物車両にすし詰めにされての移送、列車から脱出したものの負傷して線路脇でただただ弱っていく女性の話、収容所でのサディスティックな行為の数々など。

こうしたエピソードは、さまざまな自伝や証言集、小説などに頻繁に登場する。誇張でも、もちろん創作でもないことがあらためて確認できる。

訳者解説には、その後、明らかになったことなどもかなりの紙幅を割いて記述している。そのなかで、もっとも強烈な一編目で言及される、人間の脂肪から作った石鹸の話についての調査結果(2006年)も紹介されている。

それによれば、たしかに同解剖学研究所では、石鹸作りを含め人体を使ったさまざまな実験を行なってはいたが、そのために人を殺したり、そこで作られた石鹸が製品として市中に流通したりといった事実はないとのこと。

しかしインターネット上では、いまだ、当時ドイツでは人間の脂肪から作られた石鹸が大量生産品として出回っていたという言説が見つかるという。







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by chekosan | 2018-01-15 10:38 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
メリル・ストリープ主演の「ソフィーの選択」を観ました。
1982年ということは、35年前の映画なんですね! 

名前は知っていても中身を知らない名画のひとつでしたが、
町山智浩さんの『映画と本の意外な関係!』で、
ホロコーストを題材にしたものと知り、ディスクを入手していました。

町山さんの同書で思いっきり設定やストーリーがネタバレってたので、
ソフィーが何を選択したのかという核心部分や結末に対する衝撃はなかったのですが(笑)、
それでも151分、作品の世界に入り込みながら観ました。

なにしろ主演メリル・ストリープの演技が素晴らしいし、
端々に出てくる、重要なメタファーとなっている詩の一節や音楽が効いていて、
とてもていねいに、密度濃くつくられた映画だと思いました。




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ソフィーが初めて登場するのは、恋人と「別れる」「行かないで」なケンカを繰り広げるシーンで、
言葉もたどたどしく、DVな恋人に依存する、あまり賢くない女性なのかと思わせます。

ところが、実際は、ポーランドの名門大学教授の娘で、
5か国語を話す教養のあるインテリ女性だということがわかっていきます。

ソフィーの恋人のユダヤ人男性ネイサンも教養がありピアノを弾く才人に見えます。
ただし、かなりいっちゃってるところのある、危ない人物でもあります。

この2人は、南部の農場出身で作家を志して都会に出てきた青年スティンゴを魅了します。

ネイサンは陽気で才気あふれるところを見せるかと思えば、
異常な嫉妬でソフィーやスティンゴを責めたて、差別的な発言をぶつけます。

ソフィーに対しては、なぜお前だけ助かったのか、淫売め的な言葉を吐きますし、
スティンゴには、黒人をリンチする南部野郎といった暴言を吐きます。

参考資料を探して読んでいたところ、
2人への暴言には原作者の問題意識がからんでいることがわかりました。

原作者スタイロンは、『ソフィーの選択』以前に奴隷制を扱った作品も書いていて、
そうした「閉ざされた社会」の問題をえぐり出すことを大きなテーマにしていたのですね。

(参考:河合寿雄「アウシュヴィッツ理解の試み-ウィリアム・スタイロンの『ソフィの選択』論
 『アメリカ研究』 1982(16)) 

◇◇◇

とはいえ、ご機嫌なときのネイサンは、スティンゴの可能性を買い、
大きな期待を寄せる、庇護者のような役割を果たします。

ところが、インターネット上の感想をいくつか見ていると、
ある印象的なシーンを取り上げて、まったく違う解釈をされているサイトがありました。

それはちょっと穿ち過ぎ、思い込みなのではと思う文章なのですが、
学生が見つけたら、うっかり「深い見方をしている!」と参考にしてしまいそう。

◇◇◇

さて、ソフィーの過去が少しずつわかっていくところで、
ソフィーの出身地クラクフの大学では、ナチス侵攻以前にユダヤ人差別があり、
ユダヤ人とポーランド人の座席を分けたという話が出てきます。

このことは、つい先日に読んだ
『イレーナ・センドラー』(平井美帆 汐文社 2008年)にも出てきました。

ただし、イレーナ・センドラーは、そうした差別に反発して、
ポーランド人にもかかわらず、わざとユダヤ人席に座って、停学処分を受けるのですが。
(なおセンドラーはその後も抵抗地下組織の一員として多くのユダヤの子どもたちを救出します。)

「ソフィーの選択」はフィクションではありますが、
こうしたエピソードが盛り込まれていることで現実味を感じられました。

◇◇◇

それにしても、メリル・ストリープの言葉の操り方はすごいですね。
まだ流暢でない移民ポーランド人としての英語、
ポーランド語、ドイツ語を話すシーンが出てくるのですが、とても自然に聞こえました。

◇◇◇

いろいろと気になる(興味を惹かれる)ところの多い映画でしたので、
ちょっと他にも参考資料を読んでみようと思います!

続く(かも)。







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by chekosan | 2017-12-28 18:53 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)