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by chekosan

ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』(綜合社 2008)

ノーベル文学賞作家ギュンター・グラスが代表作『ブリキの太鼓』を書くまでの前半生をつづった自伝的作品です。

タイトルどおり、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていくように、少年時代から1959年ごろまでを想起していきます。

かつての自分を「彼」という三人称で語ったり、「私」という一人称で語ったり。
浮遊霊のように昔の自分のまわりをふわふわとまわりながら思い出そうとしているような部分もあれば、
若かりし自分と今の自分が一体化して生々しい感覚を思い出しているような部分もあり、
いやしかしそれは本当にそのときのことだったのか、あとからの記憶とが混じっているのかも、、、とまた錯綜し、曖昧になったり。

わかりづらいとか、ごまかしていると受け取られる可能性のあるスタイルになっているのですが、本人による本人の過去の「想起」とは、本来そういうものなのだろうと思います。

「のちに、この経験をこの作品のここに盛り込んだ」というような記述がかなりたくさんちりばめられているので、グラスの作品をより深く研究するには欠かせない本であろうと思います。

以下、現代史を知る資料として読んで、印象に残った部分をまとまりなくメモ。


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【母とブック・クラブ】
グラスは自分でも「マザコン」と書いているように、母の影響を受け、母を敬愛し、母のかわいい坊やであったことを意識してきた。

母の小さな商店を切り盛りする手腕に関するエピソードも面白いが、49頁「ブック・クラブの会員でもあった」とあるのに注目。
これはどうやら定期的に本が届けられるシステムのことで、「開戦後は新しい本は届かなくなり、本が増えなくなった」が、2部屋しかない小さなフラットの本棚には、ドストエフスキー『悪霊』はじめ、東西の文学作品が並んでいたよう。

幼いグラスは、母の蔵書を次々読みふけって、父からは「本を読んでも腹はふくれないぞ」と言われるのだが、母はグラスが読みふけっているのを見るのが好きだったという。

対して、父に関する評はちょっと冷ため。決して悪い父親ではないように思うのだが。グラスが料理好き、もてなし好きになったのも、本人は捕虜収容所での経験を大きく取り上げているが、お父さんが料理好きだったことが影響しているのではないかなあ。

【捕虜収容所における文化活動】
183頁あたり。グラスは少年兵として出陣し、負傷、米軍に捉えられて終戦を迎える。捕虜収容所では、「課題ごとに徹底的に研究するグループやサークル」が組織され、「時間割を決めて」知識を育んでいったという。コースには、古代ギリシャ語、ラテン語、エスペラント語、代数学、高等数学から、簿記のような実学、聖書学、仏教入門講座もあり、合奏団や合唱団も組織された。

グラスはここで現物を使わない料理コースに参加する。食べ物はなし、講義のみの初心者向けコースということだが、豚一頭まるまる利用する方法を教わるなど本格的であったらしい。グラスは熱心に話を聞いて、なけなしの紙にメモを取って、のちのちその教えを守って料理に励んだのだそう。


【米軍によるホロコーストに関する教育】
205頁あたり。捕虜収容所では、アメリカ人教育将校による矯正教育が行われた。しかし彼の「努力は無駄だった」「私たち、もちろん私自身もだが、彼が見せる白黒写真を信じようとはしなかったからである」。

「それはベルゲン・ベルゼンやラーヴェンスブリュックの強制収容所の写真だった… 私は死体の山や、焼却炉を見た。飢えている人々、餓死した人々、骸骨になるほどやせた別世界から来たような生存者を見たが、信じることはできなかった。私たちの言う言葉は同じだった、「それで、これをドイツ人がやったって言うのかい?」「絶対、それはドイツ人のしわざじゃない」「ドイツ人はそんなことはしないよ」」

「私が少しずつ理解し、自分が知らないあいだに、もっと厳密には、何も知ろうとせずに、犯罪へ加担したことをおずおずと認め始めるまでには、時間がかかった。その犯罪とは年とともに小さくなるものではなく、時効になろうともせず、相変わらず私を苦しめている」

【故郷の喪失】
グラスはダンツィヒの出身。自由都市ダンツィヒは戦後、ポーランド領グダニスクとなる。グラスは、ダンツィヒを追放された親類たちと戦後しばらくして連絡をとることができるようになり、両親や妹とも再会を果たす。

「あちこちに散在している親戚の葉書には、破壊された故郷ダンツィヒのことや」「彼らが耐え抜いてきた苦難の数々について書かれていた。」「また自分たちが知るはずもない「犯罪と称されること」についても書かれていたが、そこからは「だけどポーランド人たちが我々にしたあらゆる不正は、何ひとつとがめられていないのではないか……」という言葉が読み取れた。」

「我々追従された者はどこに行っても歓迎されずつらい目にあっています。私たちも同じドイツ人だというのに、ここにいる人々と同様に……」


【ペルジール証明書】
デュッセルドルフを本拠地にしたヘンケル社で製造されたペルジールという名の洗剤から、「ペルジール証明書」という言葉ができた。それを使えば褐色(=ナチス)の汚れが付いたたくさんのチョッキがまっ白に洗浄でき、その後は役職も地位もクリーンな男に納まることができるというのだ。」319頁。

【オットー・パンコークとロマ人たち】
327頁あたり。「彼は私にとって長いあいだ…模範となりつづけた」「余った賞金でロマとシンティの民族のための財団を設立したとき、隔年で与える財団の賞をオットー・パンコークにちなんで名づけることにしたのは、私にはごく自然なことだった」

「彼はナチスの時代、作品の制作と展示が禁じられていた。」

【ハンス・ヴェルナー・リヒターとの出会い】
432頁。グラスを文学者の集い「四七年グループ」に誘い、文壇デビューのきっかけをつくった。

【パウル・ツェラン】
450頁あたり。ツェランはユダヤ系。両親は収容所で亡くなる。グラスとパリで交流。「私は何度か、パウル・ツェランがそこからは逃れられないと思っていたあの回転から、彼を誘い出すことに成功した」。しかしのちにツェランは過去の記憶に苦しんで自殺。


解説より
【SS隊員であった告白を受けて】
455頁から
ヴァイツゼッカー(元ドイツ連邦共和国大統領)「…彼の文学の力と彼が野蛮な戦争の後にドイツ=ポーランド関係でもたらした際立った功績は、何も変わらない!」

クリスタ・ヴォルフ(旧東独作家)「今も昔もグラスは私の同僚、他の同僚たちのために戦ってきた」「あのドイツ再統一の騒動のとき、私をたったひとりで弁護してくれたことに感謝している」

【「ゆっくり」のススメ】
460頁。1999年に「学ぶ教師」という外国人問題をテーマとする講演をした。そこで彼は異文化を背景にした人々から学ぶことを説き、総合学科の教科として「ゆっくり」やることの学習を推奨している。慌ただしい時代、あえて自分の内面と向かい合うこと、読書によって孤独に浸ることの重要さを説いている。




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by chekosan | 2018-10-21 14:18 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)