中・東欧、ロシアのこと&大学教育のことを発信します


by chekosan
アウシュビッツ強制収容所の第2収容所ビルケナウは、第1収容所から3キロほど離れたブジェジンカ村に造られました。

レンガ造りの建物から鉄道の引き込み線が長々と続いている有名な場所はこちらのビルケナウです。


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第1収容所からは、シャトルバスで無料で移動できますが、あとで博物館が出しているガイドブックを見て、徒歩で周囲を見ていけば良かったかなと思いました。

歩いて移動すると、囚人たちを強制労働させていたドイツ企業の工場や作業場、付帯施設などがあったところや、列車で連れてこられた人々が選別された側線と特設ホームのあとなどが見られるようです。

ビルケナウは、大量虐殺を目的とした施設です。第1収容所では収容しきれなくなってきたため、アウシュヴィッツの近くのブジェジンカ村の住民を立ち退かせ、家屋を解体して収容所を造ったのです。

ビルケナウは、アウシュヴィッツ第1収容所に比べると、はるかに広大です。

線路に沿って奥へと歩いていきます。

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奥へ向かって右側には、暖炉と煙突だけが立ち並んでいます。


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左を向くと、少し建物が残っています。


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進んできた道を振り向くと、あの光景、「死の門」です。


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列車が進んでいく方向、収容所の奥の方向です。見学者が進んでいく方向に黒いものが写っています。人々を満載にしてきた貨車のひとつです。



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こういう窓もないような貨車に詰め込まれ、立ちっぱなしで、飲食も休憩もできず、ここまで運ばれてくるのです。途中で亡くなった人もたくさんいました。

なかには、床板を抜いて決死の脱出をした人もいましたが、走る列車から落ちるわけですから、大けがをしたり亡くなったりします。助けた人も処刑されますから、助けてもらえることは稀だったようです。そうした話は回想録などによく出てきます。



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ビルケナウはいかにたくさんの人を効率的に殺すかを追求した施設です。大型のガス室4つもこちらにありました。しかし、そのうち一つは作業員たちの反乱で破壊され、残りもSSが退却するときに証拠隠滅のため破壊されました。

いまは、潰れた残骸しかありません。


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「死の門」を背にして右の奥のエリアには、死体を野焼きにした林や、砕いた骨を撒いた池があります。映画「サウルの息子」でも出てきます。ガイドさんとの見学では、その一帯には行きませんでした。残って見て帰ればよかったです。


別の筋を「死の門」方向に向かって戻ります。

かつて木造のバラックがたくさん建っていたところには、今は基礎部分と、暖炉と煙突しか残っていません。

撤収後もここに残った囚人の人々が暖をとるために燃やしたり、戦後に近隣の村民が建築資材として解体して利用したりしたからだそうです。


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つづく



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# by chekosan | 2018-02-23 21:42 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
アウシュビッツ第1収容所は、そのあたりの強制収容所のセンター的な機関でしたが、規模としては小さいです。小さくて収容しきれなくなったから、近くに巨大な第2収容所(ビルケナウ)をつくったのです。

門をくぐって少し歩けばすぐ端まで来ます。でも、電気の流れる鉄条網と監視塔があるので、逃げることはできません。


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この監視棟の手前の一画は「死のブロック」と呼ばれていました。
政治犯などを形だけの裁判にかけたり、地下牢に閉じ込めたりした棟と棟の間には、「死の壁」と呼ばれる処刑場があります。



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壁は復元だそうです。普段は花が手向けられていることが多いそうです。旗は、あのパジャマみたいな縞模様の囚人服と同じ色です。



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左右の建物の窓には目隠しをしたり、銃殺には消音の銃を使ったりしたそうですが… 
この閉鎖的な収容所内で隠せるようには思えません。



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ガイドさんからは特に説明がなかったような気がするのですが、「死の壁」近くにある、この木の枠(下の写真)は、絞首刑のためのものかと思います。映画「ソフィーの選択」で、複数の人が吊られているなか女囚たちの点呼が行われるシーンがありますが、そこじゃないかなと思います。


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絞首刑場の近くにある見張り台らしきもの。


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収容所の逆の端には、ルドルフ・ヘス所長が戦後、絞首刑になった場所が保存されています。



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この絞首刑場に向かって立って、首を右に向ければ、ヘス所長一家が住んでいた家が見え、左に向ければすぐそこにガス室があります。つまり、ヘス所長一家は、ガス室のごく近くで生活をしていたのです。

そのことはアウシュヴィッツを扱う本などで読んで知ってはいましたが、予想以上に近いなと感じました。住宅街のひとつの筋から次の筋までくらいの距離です。

下の写真は、柵の隙間からヘス所長の家を撮ったもの。左の木の奥に見える建物です。もともとあったポーランド人の民家を借り上げた(取り上げた?)ものだとか。この区画は入れませんが、普通に肉眼ではっきりわかる距離です。


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そして、首を左に向ければ、すぐそこにガス室。下の写真に写っている階段を上がるとヘスの処刑場です。
ヘスは、多くの人を殺害したガス室のすぐそばで処刑されたわけです。




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模型にもなっていた大規模なガス室は第2収容所(ビルケナウ)で、第1収容所のガス室は大きさだけでいえば、日本の公共の火葬場よりも小さいくらいです。いや日本の火葬場のサイズもいろいろでしょうが。


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内部も公開されています。撮影も許可されています。

左上に写っている天井の穴からガスを発生する殺虫剤を入れました。


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ガス室のすぐ隣が火葬場になっています。ここは天井も柱も真っ黒です。


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ガス室から、ヘスの住んでいた家方面を見た図です。


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第2収容所(ビルケナウ)見学につづく。




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# by chekosan | 2018-02-22 21:49 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
「学者芸人」サンキュータツオ氏が、一見、それ意味あるの?と思うようなテーマを扱った学術論文を、面白おかしく、そして愛をこめて紹介する本です。前作『ヘンな論文』はホントに面白くて、思わず月一回連載している書評でも紹介しました。

「ヘン」といっても、研究者の世界の感覚からすれば、とりたてて変ではありません。テーマがタコツボでピンポイントなだけで、ごくごく真っ当な研究ばかりです。

よくぞ他分野の学術論文に目を通して、中身を理解し、まったくの素人でもわかるようにかみ砕いて紹介されるなあといたく感心しました。

今回の『もっとヘンな論文』は、前作がご本人の予想よりも幅広い層にうけたのか、より素人さん向けになったというか。いろいろ見ていくなかで見つけたというよりも、一般にウケそうなテーマの論文を探して書いたのかな、論文の選び方もタツオさんの解説も若干物足りなくなったかなと思いながら読んでいきました。

が! 最後の「「坊ちゃん」と瀬戸内航路」で本領発揮! 後日談を含めて興奮の渦、感動の嵐でした。

この論文は、夏目漱石が松山に赴任するときのルートを突き止めるという内容。研究を生業とされた方ではなく、在野の研究者の方によるものです。といっても、長年、明治・大正の汽船の研究をされてきた方で、調査にかけた年月やレベルは大変なものです。

タツオさんの熱の入れようも全然違う。著者である山田迪生(みちお)さんに会いたい!と学会を通じてコンタクトをとり、直接お話をするまでに至ります。そこでのお話がまた感動的なのです。

山田さんは、専門家、研究者の使命とは、①調べる ②形にする ③発信する、ことだと言われます。

しかし、日本のドラマや小説などでの船の描かれ方を見ていると、かなり怪しいものが多いそう。映画「タイタニック」では、船の様子が史実とぴったり合っていて、ちゃんと再現されている。それはアメリカの客船史の研究家がスタッフとして考証に参加しているからだったそうなのです。

日本の専門家は、調べたことをもっと発信する必要がある、それが出来ていないから、いい加減な描かれ方をしているという意識を持たれているのです。

そこで、明治・大正期の汽船の存在とその知識を啓蒙できるようなテーマは何かと考えた末に、漱石の足取りを探索するという一般うけしそうな論文を「エンターテインメントとして」書かれたのです。

その目論見は見事、タツオさんという読者を経て、多くの人に広がったわけです。

タツオさんも、科学コミュニケーション(研究が日常世界にどうフィードバックされているか、や、研究の意味を一般の方にもわかるように説明する学問領域)も自分にできることのひとつなのかなと思い、2冊目を出されたとのこと。

なるほど、より「啓蒙」という意識が高まっての2冊目だったわけですね。

本全体としては一冊目の方が良いと思いますが、この2冊目は、山田さんの論文紹介と後日談での盛り上がりがすばらしかったです。

どうやら続編も期待できそうです。そのときは、ぜひ同じイラストレーターさんの挿絵でお願いしたいです☆


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# by chekosan | 2018-02-22 17:16 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
さて、標準的な見学コースでまず見るのは、ここが絶滅センターであったことを示す展示です。


アウシュビッツ強制収容所のメイン施設には、収容者から没収した大量の日用品などが展示されています。ほかにも収容者の写真や、当時の写真、記録の一部なども展示されていますが、なんといってもここの最大の特徴、象徴は、この遺留品に尽きるといえるでしょう。


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ここで亡くなった人たちの人骨(粉)の入った壺です。


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撤退時に破壊されて瓦礫しか残っていないアウシュビッツ第2収容所(ビルケナウ)のガス室模型。
地下の「シャワー室」に押し込められてガスで殺され、上の階で焼却されます。
あとで見たアウシュヴィッツ第1収容所に現存する小ぶりのガス室とは構造から違います。


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ガス殺につかった「チクロンB」の粒と空き缶。

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そして、収容者から没収した大量の日用品の数々…

メガネ。

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鍋釜食器類。

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クリームなど。


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ヘアブラシ類。取り上げる意味がわからない。

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靴、靴、靴… 小さな子どものものも… 


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こうして履きなれた靴を取り上げておいて、収容者には木靴を履かせていたのです。過酷な労働をするのに木靴。寒いときは氷点下20度以下にもなる湿地で木靴… パジャマみたいな薄い囚人服に木靴…


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カバンの山。出身地や名前が書かれているのに、引き取り手がないのは、本人や親類縁者がみんな亡くなっているからです。

遺品を展示している部屋は、窓にピンクのシートを貼っていました。劣化を防ぐためかなと思います。

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刈り取られた大量の髪の毛も展示されています。遺体の一部ということで、その部屋は撮影を控えるように言われました。三つ編みそのままのものもあります。髪の毛はカーペットなどに加工されたということです。今も残るものは、経年劣化で色が褪せ、灰色の羊毛フェルトのようになっていました。



もっとも胸に迫った展示は、大量の義足やコルセット、松葉杖などの類です。

靴やカバンや鍋釜は持ち主の手を離れることもあるでしょう。しかし、義足が持ち主から離れるということは、つまり持ち主がそれを使わない、使えない状況になった=亡くなったということをまぎれもなく示しています。これらが必要だった人は、労働できないとみなされ、即刻殺されてしまったのでしょう。


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つづく。



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# by chekosan | 2018-02-21 17:24 | 博物館、資料館 | Trackback | Comments(2)
第2次大戦時のドイツ占領下のフランスで「対独協力者」であったとみなされた女性たちが、ドイツ撤退後、裏切り者として公衆の前で丸刈りにされるという事態が各地で頻発した。その「被害者」たちの証言を求めて訪ねた記録。

フランスの占領時代~戦後について知識も関心も低かった私には、わかりやすくその時代を解説してくれていて理解の助けになった。

「丸刈り」にされた女性たちの中には、情報提供や経済的な協力をしたものもいれば、駐屯するドイツ兵と恋仲になった者もいて、その「協力」の内容や度合いはそれぞれに違うのだが、概してドイツ兵とねんごろになった女という捉え方をされているという。

丸刈りはいわば集団リンチ、うっぷん晴らしのようなもので、正当な法的処罰などではない。女性たちに恥をかかせ、辱めることが目的である。著者は「被害者」と表現するが、いまでも現地では罪を犯した者というイメージであるという。

そのような現象をフランスの歴史家ファブリス・ヴィルジリは次のように考察している。

・丸刈りは「性的な対独協力への罰」ではなく、「対独協力への性的な罰」である
・フランス社会に男性による秩序を回復するための愛国的な暴力であった
・この一連の暴力に参加した男たちは、自らを浄化された社会の担い手であると認めさせると同時に、彼女たちから女らしさを剥奪することで、女性の権利は拡大しても、性に関する自己決定権は依然として男性が保持していることを示そうとした。


本書の著者は「丸刈りの被害者」にコンタクトをとって証言を得ようとするが、テーマがセンシティブであること、当事者の年齢的な問題などから壁に突き当たる。新聞に広告を打とうとしても掲載を拒否されることが多く、やっと掲載されれば脅迫するような電話が来たこともあったとのこと。

ドイツ兵のその後を調査する専門機関に問い合わせて、そこからの照会(紹介)で、ようやく数名から証言を得る。そうした経緯自体が、こうしたテーマで証言者を得ることの難しさを示している。今後、ますます当事者の声を拾うことは難しくなるだろう。貴重な証言であると思う。


ドイツ占領下のフランスと聞いて私が思い浮かぶのは、映画「フランス組曲」くらいなもので、あの作品などは、まさにドイツ人将校と、彼を間借りさせる家の若奥様との美しい悲恋の物語であった。あの映画のヒロインは意外な方へと人生を展開していくので、戦後まで生き抜いていても丸刈りの目にはあわなかっただろうが…

にしても、女性を丸刈りにしたり、ユダヤ人のもみあげや髭を剃ったり、紳士淑女を地面に這いつくばらせて拭かせたり、あざけりの言葉を書いたプラカードを首からかけさせたりといった辱めを群衆が喜んで見ている光景には心が痛む。殴る蹴るといった暴力以上に残酷に思える。

その現場を目撃したイギリスの記者や、ジャン=ポール・サルトルが「中世的サディズム」であると批判する文章を書きのこしているのは救いか。。。



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# by chekosan | 2018-02-20 22:44 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
今回の旅の目的は、アウシュビッツ強制収容所跡を訪ねることでした。

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同博物館公式ガイドである中谷剛さんに連絡をとり、2月6日の午前9時から約3時間、案内していただくことになりました。

10分前集合に間に合うよう、クラクフのバスステーション(駅と隣接)を7時に出発するマイクロバスに乗りました。

バスステーションの有人窓口は7時にしか開きませんので、電光掲示板で出発場所を確認し、運転手さんから直接チケットを購入しました。片道69.3キロ、12ズオティ(その日のレートで406円)でした。



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博物館見学者だけでなく、普通の路線バスとして使う人もいて、途中での乗り降りもありました。マイクロバスはかなり狭いです。

帰りは大型バスに乗りました。こちらは片道14ズオティ(474円)でした。やはり大型バスの方が格段に楽です。

博物館前に着くと、運転手さんが ’Museum!’ と何度か声を掛けてくれました。え、ここ?という感じで数人が下車。私たちが乗った便は、意外と見学者よりも地元の人の割合が高かったみたいです。

2月は極寒期で、見学者は比較的少ない時期ではあるようですが、それでも8時半ごろに着いたら、受付はすでにたくさんの人でした。公式の案内には、2月ならガイドをつけなくても見学できるようなのですが、実際には、個人で見ている人はいなかったような…? 未確認ですが。



集合までに少し時間があったので、戸外の案内板をすべて見て行きました。まずは、この博物館の設立趣旨や寄付者(国)のことば。

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駐車場から受付までの道には、アウシュヴィッツと、その支所であるビルケナウが解放されたときの写真(連合軍が撮影したもの)。



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これらを一つ一つ見て、撮影して、受付の建物へ。この日の日本語ツアー参加者は12人?くらいでした。

受付の建物も当時から使われていたようです。いまはセルフサービスのレストラン、ブックショップ、軽食の売店、郵便局、トイレ(有料、2ズオティ)などが入っています。

※東欧はトイレは有料のことが多いです。小銭必要です。そのかわり係の人が番をしているので清潔で安心です。有料のトイレには手を拭く紙なりタオルなり乾燥機なりがあります。



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受付では、セキュリティチェックがあります。A4サイズ以上のかばん類は持ち込めません。受付手前の別の小さな建物に預ける必要があります(4ズオティ)。私もリュックは預けて、小さなポシェット一つになりました。

コートまでは脱がなくていいのですが、金属探知機を通ります。液体の持ち込みにも制限があります。

チェックを通過したところで、レシーバーとヘッドフォンを受け取ります。ガイドさんの声が直接ヘッドフォンで聞けるので、少しくらい距離が空いても大丈夫です。このシステムはとても良かったです。耳もあったかいし(笑)

受付の建物を出たところです。ここから博物館内(強制収容所の内部)に入っていきます。



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朝のアウシュヴィッツは寒い! 集合前は日本のみなさんと口々に寒い寒いと言い合いましたが、見学の大半は室内ですし、この日は晴れたので大丈夫でした。でも帽子やマフラー、ブーツは必須です。地面は凍っています。


有名な門をくぐります。「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」の文句は、ほかの収容所にも掲げられています。

かつては、3つめのBの文字が上下逆になっていると言われていましたが、研究の結果、これは当時の流行りの字体だったということがわかっているそうです。

※そう聞いてネットで検索してみたら、テレジーン強制収容所の同じ文句もBの上の方が大きかったです。




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門から先は収容所になります。二重の鉄条網が逃亡を阻止します。煙突がたくさんあるのは厨房(再現)だそうです。厨房の内部には入りませんでした。



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門を背にして進むと、煉瓦の瀟洒な建物が続きます。ガイドさんもおっしゃってましたが、これだけ見ると大学のキャンパスか何かのようなのです。


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建物の番地が入ったランプのデザインは、クラクフの街中でも見ました。パッと見だと普通のお家のようにも見えます。


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さて、いよいよ展示を見ていきます。


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つづく。


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# by chekosan | 2018-02-20 14:58 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
スピルバーグ監督の名作「シンドラーのリスト」を昨年ようやく観ました。やはり名作と言われる作品は名作だわと感心し、ひとしきり授業で学生にも勧めました。

オスカー・シンドラーはチェコスロヴァキア生まれのドイツ人。ナチス占領下のポーランドのクラクフで、傾いた工場を買い受けてホーロー製品や軍需品を生産して大成功をおさめ、自分の工場で多くのユダヤ人を雇用し、終戦間際には労働者ごと、ごっそり故郷に工場を移転するという方策で彼らの命を守った人物です。

そのあと、友人とアウシュビッツを訪ねる旅の話が具体化したので、シンドラーの経営していた工場(いまは博物館になっている)も訪ねてきました




トマス・キニーリーの原作は旅の途中から読み始め、帰ってから風邪で寝込みながらちょっとずつ読み進めました。ううむ、これも力作。非常に具体的で面白い。なぜこれが絶版になっているのか。まあ、おかげで(?)、中古で1円から入手できるわけですが…

クラクフの街はさほど歩けなかったのですが、それでも、本書に出てくる地名や位置関係がわかるようにはなったので、読みながら臨場感が得られました。

文庫版で600ページを越える大部の著作で、昔の版ゆえ字は小さく行間も狭く、面白いのになかなか終わらないですが、でもページを繰る手は止まらないという本です。

生存者の証言が得られた部分は明確にそう記述し、想像の部分は想像として書き分けているのも良心的です。シンドラーに関しては、肯定的に、魅力ある人物として描いていますが、プレイボーイぶりや賄賂のだしっぷりなども余さず書いています。

プワシュフ強制収容所所長のアーモン・ゲートに関しても、非常に(異常に)サディスティックな人物であることははっきり書いていますが、ある種の魅力も備えていたようにも描いています。

単純に善人、悪人という「キャラ付け」にはしていないのが、ノンフィクション作品としての面白さを増しているように思います。


スピルバーグの映画は、それでも3時間くらいある長い映画ではあるのですが、だいぶ原作を端折っています。印象に残る「赤い服の幼女」も、あんないたいけな女の子が、あああ…(´;ω;`) というイメージで使われているだけですが、原作では名前や出自などがていねいに紹介されています。

シンドラー以外にも、ユダヤ人を守るためにギリギリのところまで頑張った非ユダヤ人の工場経営者や軍人がいた話も、原作にはたっぷり紹介されています。

とはいえ、映画は映画で、ゲットーへ追い立てられるユダヤ人の悲劇、そこからさらに強制収容所に行かされ、理由なく殺される非道さ、シンドラーのダンディーで社交的で大胆な振る舞い、シンドラーとユダヤ人との交流がビジュアル的にわかりやすく描かれているので、やはりあれはあれで名作だと思います。


ところでですね、私が入手した本、カバーはこのように『シンドラーのリスト』となっていますが、


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カバーをめくりますと、あら! 『シンドラーズ・リスト』です。
もともとは『シンドラーズ・リスト』で出版し、映画がヒットしたのでカバーだけ変えたのでしょうね。しかし、ちょっと紛らわしい…


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クラクフのユダヤ人が連れて行かれたプワシュフ強制収容所跡には残念ながら行けませんでしたが、ゲットーだった地区はうろうろできました。ほんの一部だけ残るゲットーの壁も見てきました。その写真はこちらをどうぞ

シンドラーがユダヤ人1200人を連れて移設したチェコの工場跡も、博物館として保存することになりました。整備や公開はまだまだこれからのようですが、公開されたらぜひ行こうと思います。





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# by chekosan | 2018-02-19 14:28 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
シンドラーの工場博物館を見終わって、お昼を食べたあと、ゲットーの跡を歩きました。
といっても、当時の様子がわかるものはそんなにはありません。

まず、「英雄広場」まで戻りました。

ここは、カジミエシュ地区から移動させられたユダヤの人たちが、さらに強制収容所に移されるときに集合場所になったところとか。

追い立てられた人々が手放さざるを得なくなった家具や持ち物が散乱していたのを象徴するオブジェとして、椅子がいくつも配置されています。



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写真中央の二階建ての建物が、市の博物館になっている「鷲の下で」薬局跡。

この薬局はポーランド人のタデウシュ・パンキエヴィチが経営していたもの。
彼は非ユダヤ人なのですが、この場所での営業の継続を認められ、ゲットーのユダヤ人をたくさん救ったそうです。
戦後、その功績を称えて「諸国民の中の正義の人」として表彰されています。




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月曜も開館していましたが、13時半までに入館しなくてはならず、着いたときには10分ほど過ぎていてダメでした。アクセスしやすいところだからまた来ればいいやと思っていたら風邪でかなわず… 残念無念です。

パンキエヴィチはシンドラーと並ぶクラクフのユダヤ人救出の二大有名人という扱いでした。本も何種類も出ていました。漫画を買って帰ったので、また読んで感想をアップしようと思います。(^▽^)



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ところで、旧ゲットーも、後日歩いたカジミエシュ地区(旧ユダヤ人地区)も、なんとなくですが、Apteka(薬局)が多いように感じました。何か関係があるのでしょうか。

さて、旧ゲットーとはいっても、それをしのぶような建物などはさほどありません。お昼ごはんを食べながら、シンドラーの工場跡で買った『Jewish Cracow』という小さいけどわかりやすいガイドブックで確認しましたが、このポドグジェ地区で見れるのは下の写真の1~5番くらいなもののようです。



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ゲットーを囲んでいた塀を見て歩くことにしました。地図の4番と5番です。
2番と3番の建物は中には入れないっぽい(未確認)のと、方向が違うのでやめておきました。

ちなみに6番はシンドラーの工場跡、7~11はプワシュフ強制収容所跡です。


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まずは4番の壁。Lwowska通り25-29番です。
クラクフのゲットーの壁は、ユダヤの墓標の形をしているのが特徴です。
お墓の形で居住区を囲むとは、なんという圧迫。悪趣味な…

とはいっても、街の中に残っているのは、これだけです。ホントにこの写真に写っているこれだけ。



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街を分断し、人々を隔離、抑圧、差別した壁を残すわけにいかないでしょうが、しかしこれだけか…という気もしなくはないです。



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もう一箇所、学校の背後にも残っているとあります。そちらにも行ってみました。住所は Limonowskiego通り62番。

学校と公園の境界に使われているようで、柵はありますが開いていて入っても良さげだったので間近に行ってみました。塀の奥は天然の崖になっていました。



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ちなみに崖の上にはレンガ造りのベネディクト要塞がそびえ立っています。そこも余裕があれば行ってみたかったのですが、ぐるっと回らないと登れなさそうだったのでやめておきました。

ここまで来ると実はプワシュフ強制収容所跡もあとちょっとの距離なのですが、どんどん街のはずれ感が増していくので、日を改めて、、、と思っていたら発熱でポシャってしまったのでした。(^-^;



つづく。


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# by chekosan | 2018-02-18 18:00 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
ポーランド旅行から帰って1週間が経ってしまいました。
現地で中4日しかない旅程の3日目に風邪で寝込んでしまい、4日目以降はそろりと動けたものの、
帰国してからまたぶり返して3日ほど寝込んでしまいました。

そのあと、成績提出(大量のレポートの採点)に丸々3日ほど費やし、
昨日今日はフィギュアスケートも観なくちゃだしw
そんなこんなでようやく旅を振り返ることができるようになりました。

さて、ポーランドに到着して次の日。

まずは「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーが経営していたホーロー工場に行きました。
いまは、クラクフ市の歴史博物館になっています。

私たちが行ったのは月曜日。ここは年中無休ですが、月曜日は14時までなので注意が必要です。

「英雄広場」という、ユダヤの人々が移送されるときに集合させられた広場(別途投稿予定)から歩いて10分ほど。道に案内板がちょこちょこあります。

開館に合わせて10時ごろに着くと、すでにたくさんの人が。
月曜に博物館が開いているだけでも珍しいと思うのですが、なんと入場無料でした!! ラッキー!


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荷物はロッカーに入れるか、クロークに預けます。ロッカーは無料ですが、混んでいると足りません。
身軽になったら、いざ入場。
博物館のガイドさんによるツアーもあるようです。

この博物館、体感型にしてありまして、当時のクラクフの街や建物、乗り物の雰囲気を再現した空間を進んでいきます。そのため、けっこう狭いところにひしめき合う感じになります。


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進んでいくだけで、クラクフの占領期の歴史を感じとれるようにしてある、工夫のある展示です。ただ、演出のために証明を暗くしてあって、大勢のお客さんと押し合いへし合いするので、小さな字で書かれたポーランド語か英語の説明板を読み進めるのはかなり困難でした。というか、読めません。。。

そうそう、ここ、シンドラーの工場跡ではありますが、シンドラーのことばかりを取り上げているわけではありません。「ナチによるクラクフ占領期 1939-1945」をテーマにしているんです。

これは復元だったか。ポーランド軍のちっちゃな戦車。

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この博物館の特徴のひとつが、壁に当時の布告や新聞などを貼り付けたように展示していることです。
パネルでガラス越しじゃないので、街角風に感じられます。


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床とか天井もそれぞれデザインが凝らしてあります。
この部屋は床が一面、ハーケンクロイツ。

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ユダヤ人の人々の生活空間の再現もありました。

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オスカー・シンドラーの執務室だけは明るいです。デスクの背後の地図は、トマス・キニーリー『シンドラーのリスト』のなかでも言及されています。若者の団体が神妙にガイドさんの話を聴いています。



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スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のなかに出てくる印象的なシーンで使われた階段です。両親を雇ってほしいユダヤ人女性がオスカー・シンドラーを訪ねてくるシーンです。

壁面には、クラクフの通りの看板(標識)がずらりと掛かっています。暗くてブレブレで残念。

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クラクフのユダヤ人は、もう何百年もクラクフ旧市街の南に位置するカジミエシュ地区にたくさん住んでいたのですが、ナチの侵攻後、そこよりも南のポドグジェ地区に移動させられます。さらにそのあと、さらに南のプワシュフ強制収容所に入れられます。

プワシュフ強制収容所を再現した部屋には、砂利が敷き詰められていました。採掘現場があったのです。映画「シンドラーのリスト」に出てくる収容所がそれです。プワシュフにも行く気満々だったのですが、風邪をひいて行けませんでした…

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見るものいっぱいですが、私が色めきだったのはプロパガンダ・ポスター。
ナチは、共産主義とユダヤ人を「敵」として設定していました。それがよく表されています。


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これとか特にわかりやすいかなと思います。ボルシェビキ(赤い星がマーク)に背後から耳打ちするユダヤ人。。。


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展示を見終えて元の入り口に。シンドラーのリストで助かった人々の写真とシンドラー。

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チケット売り場に、本と絵葉書、ノートなどが売っていました。そんなこともあろうかとリュックで来ていたので、本やノートなどをたくさん買いました。

そのうちの一冊に、来る前に別の英語文献で見て気になっていた場所がクラクフにあると紹介されていて嬉しい発見。後日見学に行くことができました。旅程の早い目にこういう資料を手に入れるのは正解ですね。

左上の漫画は、大事をとった4日目の午後に読みました。感想は2月9日にアップしています


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下の写真の上の真ん中はイレーナ・センドラーといって、ユダヤ人の子どもたち2500人をゲットーから救出したポーランド人女性に関するDVD。やった! センドラーを扱った資料、あまりないんです。日本語では、児童書が出ています。


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これはA5サイズのノート2種類。私はA5ノートが大好きで、いいデザインのものがあれば必ず買うようにしています。

左のは、イディッシュ語のアルファベットがデザインされているのですが、この色違いをリトアニアのユダヤ博物館で買いました。各地のユダヤ関連の博物館に卸されているのかな。

リトアニアで買ったマグカップと同じものと色違いも売っていて、ご当地マグも大好きなので迷いましたが、食器棚がパンパンなので、こちらはぐっと我慢しました(笑) 


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開館直後に入って、ざっと見るだけで約2時間くらい経ちました。パネルをていねいに読んでいったり、ガイドツアーで回ったり、もっと混んでいたりしたら、もう少し時間が必要かと思います。


私たちはここを見た後、近くのカフェで食事をして、元ゲットー地区をざっと見て回りました。

つづく。




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# by chekosan | 2018-02-17 19:08 | ポーランド | Trackback | Comments(0)
夏にリトアニアで見てきたホロコースト関連の「現場」の保存と公開について小論をまとめました。


リトアニアにおけるホロコーストの記憶」流通科学大学論集 第30巻2号 2018年1月発行。
本文はこちらからオンラインで読んでいただけます


ここ2、3年、「過去をどのように伝えるか」「負の遺産を現在と未来にどう生かしていくか」「教育、文化施設は政治的・歴史的関心をどう扱っているのか」という関心をもっています。

2016年度は学内の助成を得てベルリンとプラハを訪問し、そのうちベルリンの国家保安省関連施設についてまとめました。なぜかアクセスしてくださる方が途切れず驚いています。ドイツはやはり層が厚いのか? 「負の遺産をどう伝えるかー旧東独のシュタージ(国家保安省)関連施設の事例ー


2017年度も学内の助成を受けることができ、夏にリトアニア、先週はポーランドに行くことができました。研究課題名は「初年次教育と専門教育を架橋する中間教育構想ー国際理解能力育成の視点から」です。

これは他大学に勤めている某M君との共同研究で、彼とは研究や教育上の関心と対象地域が重なっているので、近いうちに成果を著作にまとめようと計画しています。その一環です。


リトアニアには、杉原千畝氏の領事館跡を訪ねる目的で行きました。日本における杉原の受容の変遷と現状をまとめようかと思っていましたが、行ってみると「第9要塞」や「パネリアイの森」、旧ゲットーの地区といった現場や、各博物館の展示のあり方に強い印象を受けました。リトアニアという土地にもかなり魅了されました。そこで、杉原関連の記述はごく一部にして、リトアニアでのホロコースト関連施設の現状を概観するものにしました。

冊子の方にもかなりクリアな写真を載せられたのですが、いかんせん白黒なので、またブログでカラー写真と共に補足などをアップしていこうと思います。

ということで、今回は、この論稿には使わなかった写真を少し。

カウナス(杉原千畝氏が領事館を開いていた街)のはずれにある第9要塞です。ドイツが侵攻したとき、ここで5万人が殺されました。いまは要塞の屋根を緑が覆っていて、丘と一体化しています。



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同じく第9要塞の丘に、ソ連時代(リトアニアではこの時代も「占領」と表現します)に造られた、8階建てビルに相当する高さのモニュメント。ソ連のつくるモニュメントはとにかく大きいですね、どこも。でも、写真ではあまり巨大さが伝わらないなあ。


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# by chekosan | 2018-02-13 12:21 | 書いたもの | Trackback | Comments(0)