中・東欧、ロシアのこと&大学教育のことを発信します


by chekosan

2015年、アフガンやシリアからの難民が欧州に大挙して押し寄せた。
その大移動に新聞記者である著者が同行し、同時進行で発信するルポルタージュである。

難民や移民には、欧州各国が自国にとどまられないようにと移動手段を用意したため、
予想外に短期間で難民の波はギリシャからオーストリア、ドイツへと動く。

難民ではない記者は難民用の移動手段は使うことができず、
取材対象者であるアフガンからの難民、アリさん一家とはぐれたり待ちぼうけを食わされたりする。
同行取材とは言いながら、3週間の取材期間中、かなりの日数アリさんたちとは別行動となる。

シェンゲン協定により域内の移動は自由であるはずのEUで国境を目の前に右往左往したり、
難民の人たちと接触できなかったりして疲弊する記者の率直な吐露は同時進行ルポならではだろう。

ただ、はぐれていた間の難民一家の移動や生活の様子がわかりづらいため、
「同行記者おおいに苦労する」的な部分の方が印象に残ってしまうのは惜しい。


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取材対象であるアリさん一家がドイツにいったん落ち着いたところで、
話は、アウシュヴィッツに収容され、戦後はオーストリアのサッカー界の発展に尽力したユダヤ人、
ロッパーさんの生涯の紹介となる。

これは、ドイツが難民を受け入れる背景に、
第二次世界大戦中のドイツのユダヤ人迫害という事実があったことを説明するためなのだが、
章題が「贖罪のドイツ」であること、
オーストリアがナチスドイツに一方的に支配された被害国として描かれているのには違和感がある。


そして、ドイツに着いて数か月経ったアリさん一家の様子に話が戻るのだが、
ドイツの手厚い難民保護に感謝するアリさんの話を聞いて、
(記者の支局のあるオーストリアでは)欧州の若者が職を得るのに大変な状況なのに、
そんなに税金を使って難民を保護するようでは、極右政党が勢力を伸長するのもわからなくない、
というような記述が出てくる。

いやしかし、、、彼らは着の身着のまま命がけで異国の地へ逃れてきて、
正式に難民として承認されるかどうかもわからない不安定な身の上である。
豪邸で遊び暮らしているわけではない。

バーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』だったか、
低賃金で不安定な職に就いてみるという体験ルポがあった。
そうした生活をしていると、持ち物や「いざというとき頼れる命綱」がないために、
かえって健康的な食生活を送れず、健全な節約もできないという。

ドイツで家族3人、食費含めて生活費10万円では余裕などないだろう。
それとも弱者は徹底して貧しくあらねば、苦難を耐え忍ばなければいけないだろうか。

それよりも、ドイツはどうやって住居を確保し、支援金を捻出しているのか、
難民認定された人々の就職支援や、地域に入っていく手助けはどのようなものか、
外国人向けドイツ語講座はどのようなものか、
それらにどれくらいの人員を割いているのかといったところを知りたいと思った。









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# by chekosan | 2017-03-11 00:51 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
アウシュヴィッツ強制収容所に存在した家族収容所区画での実話をもとにしたフィクションです。
主人公である14歳の少女ディタ(実在の人物)を中心に書かれています。
そのため、かなり太い本ですが、読みやすくなっています。

とはいえ、舞台がアウシュヴィッツなので、信じがたい残酷な情景も出てきます。
耐えがたい苦しみや悲しみが主人公たちを襲いますが、
それを少しだけ和らげてくれたのが、家族収容所につくられた「学校」でした。

ユダヤ人の体育指導員であるヒルシュ青年(実在の人物)がナチスに掛け合ってつくったもので、
主人公ディタは、そこに極秘で持ち込まれた8冊の本を管理する「図書係」だったのです。

禁止されている本を隠し持っていることがばれれば、即刻、殺されます。
ディタは、知恵を働かせ、命がけで本を守ります。
それだけ本は、人々の心を救う、大切な大切なものだったのです。



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著者は1967年生まれのスペインのジャーナリスト。被収容者でも遺族でもありません。
ディタさんの話を知り、ご本人に聞き取りを重ね、調査を重ねて書いたとのことです。

そう聞くと、ついつい登場人物像やエピソードを事実として受け止めがちですが、
フィクションであるということは念頭においておく必要があります。

たとえば、訳者あとがきに明確に書かれているのですが、
主人公が読んだという設定の小説「兵士シュヴェイクの冒険」からの引用の一部は創作とのこと。

その部分は、たしかに私も記憶にないエピソードで、
シュヴェイクというよりは別のキャラクターが言いそうなことなので、
なんとなく違和感をもったのですが… 
引用を創作するというのは、ちょっと思いもよりませんでした。

また、全体的にあまり文章がこなれていないようにも思います。
が、アウシュヴィッツでの体験を記した、フランクル『夜と霧』、
プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』http://chekosan.exblog.jp/26200975/
スピーゲルマン『マウス』http://chekosan.exblog.jp/25882741/ といった作品に
勝るとも劣らないような詳細な収容所生活の様子も描かれていますし、
なにより家族で収容されていた人々の生活については、上記の作品では記述されていないので、
興味深く、ときに衝撃を受けながら、あっという間に読みました。

ディタのほかにもたくさんのユダヤ人被収容者やナチスの隊員が出てきます。
決死の脱出を図る人、処刑されてしまう人、ガス室で殺されてしまう人、
なんとか戦争終結まで生きた人の行動や行く末もかなりの紙幅を割いて描かれています。
その点も、調査をもとにして記述するジャーナリストならではだと思います。






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# by chekosan | 2017-03-08 22:11 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

猪熊純・成瀬由梨責任編集『シェア空間の設計手法』(学芸出版社 2016)の
刊行記念イベントに行ってきました。

私は建築はまったくの素人ですが、建物やインテリア好き、まちづくりやシェア経済にも関心があり、
それを知った方から、京都で人が交流できる場をつくる計画に声をかけていただきました。

今回はその計画の参考になりそうかなと思い、参加してきました。
どちらかというと建築関係者向けの本なので、「予習」もしていきました。^^


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会場は、京都駅から徒歩5分ほど、学芸出版社の会議室です。4階建てのしゃれたビルです。


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『コミュニティデザインの時代』(中公新書)の山崎亮さんもゲストで来られるというので、
生でお話が聞けると楽しみにしていましたが、残念ながら体調不良でご欠席。

その分(?)、本書に実例が紹介されているドットアーキテクツの家成俊勝さんが
ゆる~い口調で笑いを交えてお話され、柔らかな和やかな雰囲気をつくってくださいました。

シェア空間をテーマにしているだけあって、
登壇された建築家のみなさん、寛容性、多様性、受容がベースにあるなと感じました。

人の出入りや建物の使い方は変化していくものだと思っておくこと、
それゆえ融通が利くことがポイントではないかと話されていたのが印象的でした。

来場者は、建築科の学生さんや、シェアハウスの経営者、
建築関係者、まちづくり関係者が多かったようです。

質疑応答では学生さんやまちづくり関係の方からの質問に対して、
登壇者のみなさんが、お悩み相談のように、ていねいに親身になって答えられていました。


◇◇◇

さて、この本ですが、49の建物の図面が掲載されています。

最近流行りの若い人向け共同住宅だけではなく(むしろそれは少ない)、
幅広い事例を取り上げて、都市、都心、郊外という分類で掲載してあります。

図面には人や家具なども描き込まれているので、
どんなふうにその空間が使われるのかを想像しやすくなっています。

写真は少なめ。巻頭にカラーが一枚ずつ、本文に白黒があったりなかったりなので、
複雑な構造の建物は、素人には若干どうなっているのかわかりづらいものもあります。

が、どちらかというと教科書的に使われることを想定して編まれたそうなので、
そこは仕方ないですね。


◇◇◇

では、素人には参考にならないかというとそんなことはなくて、
設計した人や施主(空間の運営者)のちょっとした表現や、実際の活用例から、
いくつか具体的なヒントや、大きな示唆が得られました。

私が関係している場所づくりに直接的に参考になりそうなのは、
日本人は無目的、多目的な場所は苦手」というもの。
(p.43 「まちの保育園」代表のお話)

私自身がそうです。
ただ集いましょうとか、はい仲良くしましょうというのは苦手です(笑)

トークイベントでも、具体的な行為が想定されているとか、
そこにある物や機能を目当てに行くことができるような空間であれば、
外に出ようとしない人たちでも来ようと思うのではないか、
多様な層が交われるのではないかというお話がありました。

それから、タイムシェア
空き時間の有効活用というだけでなく、
違う世代や違う層が、同じ空間を違う用途に使っていくなかで
ちょっと重なる部分ができていって関わりが出てくるという事例です。
(p.48-49「高島平の寄り合い所/居酒屋」)

ほのかなわれわれ性」という表現も面白いと思いました。
これは広い公共施設の外部空間の説明ではありますが、
使用者がべったりみっちり関わることばかり追求しなくてもよいのかなと。
同じ空間にいて、なんとなく見守る「ゆるやかな協働性」も心地よいですよね。
(p.52-53 武蔵野プレイス)


私が関わっているプロジェクトの場合は、建物は既にあり、
その作品性、作家性を大事にしながら活用するという趣旨なので、
それゆえの難しさがあります。

が、建物そのものの価値や雰囲気が人を呼ぶということも期待できます。
いろんな事例や活動を参考にしつつ、面白い空間、場づくりができたらと思います。









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# by chekosan | 2017-03-03 16:59 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)
授業のない2月。成績をつけ、共著テキストの仕上げにかかり、
各種報告書などを提出し、論文の資料を集め、本を読み、映画を観ていました。
読了の冊数はさほどではないけど、今後の方向性へのヒントをもらえました。
特に、平田オリザさんの講演と著作は大きな収獲でした。


2017年2月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2198ページ
ナイス数:395ナイス

岸辺露伴 ルーヴルへ行く (愛蔵版コミックス)岸辺露伴 ルーヴルへ行く (愛蔵版コミックス)感想
ジョジョは読んだことがなかったんですが、男児らが一体どこでか読んでいて、セリフをラップにしたものをネットで覚えて四六時中唱えるもんでウルサイやめろと言いつつも、だんだん知った気になっていたところ、展覧会「ルーヴルNo.9」に行って、この作品を見てしまい、うっかり気に入ってしまいました。この本は帰り道の電車であっという間に読めてしまいましたが、ルーヴル所蔵の彫像を模したポーズが散りばめられているそうなので、家でじっくり細部を楽しみたいと思います。「ルーヴルNo.9」展の感想はこちらに→http://chekosan.exblog.jp/26573934/
読了日:2月6日 著者:荒木飛呂彦




岸辺露伴は動かない (ジャンプコミックス)岸辺露伴は動かない (ジャンプコミックス)感想
展覧会「ルーヴルNo.9」で「岸辺露伴ルーヴルへ行く」を見てきたと聞いて、母のお許しが出たと思ったか、男児らがブックオフで買ってきたのをうっかり読む。荒木氏の漫画は初めて。昔の劇画タッチなのが新鮮。あらすじ紹介にはさまざまな「恐怖のエピソード」と書いてあるが、そうか? どちらかというと笑っちゃっうのだが。。「六壁坂」はグロくてうわぁ、、、、最後の「岸辺露伴 グッチへ行く」はスタイリッシュ。おかしなポーズがグッチの服とよく合っている。
読了日:2月6日 著者:荒木飛呂彦




TED TALKS スーパープレゼンを学ぶTED公式ガイドTED TALKS スーパープレゼンを学ぶTED公式ガイド感想
アメリカ発祥の人気プレゼンテーションイベント、TEDの提供するプレゼンテーションのコツ。細かい技術や注意点もとても参考になります。でも一番大事なのは、語るに値するアイディア(思い)と、伝えようとする熱意と、聞いてくれる人に対する敬意です。月イチ書評連載@関西ウーマンで詳しく紹介しました。こちら→https://www.kansai-woman.net/Review.php?id=201070
読了日:2月11日 著者:クリス・アンダーソン





黒板とワイン―もう一つの学び場「三田の家」黒板とワイン―もう一つの学び場「三田の家」感想
知的なサードプレイスづくりの参考に読んだ。慶應の先生方がキャンパス近くの一軒家を借り受けて、学生、教職員、地域の方、卒業生などが集う場として活用した記録。各曜日の「マスター」(慶應の教員)が、その曜日の運営を任される。ゼミ活動やイベントを開く日もあれば、特に何もない日もある。普通の民家であることは、教室における学生や教員間の緊張を解く効果があるようだ。そうした時間・空間を通常の大学の業務と別に運営することは刺激的で楽しい半面、負担や疲労も生じるという。そんな正直な感想も記されている。 詳しい感想はこちら →
http://chekosan.exblog.jp/26654262/
読了日:2月14日 著者:熊倉敬聡,長田進,坂倉杏介,岡原正幸,望月良一,手塚千鶴子,武山政直



映画は戦争を凝視する映画は戦争を凝視する感想
映画は研究や教育のネタとして観ている。授業で紹介すると学生からいろいろな反応が返ってくる。別の作品を教えてもらったりもする。するとそれらも観たくなる。そうして映画を紹介している記事や本なども集めて参考にするようになった。そんなわけで、この本。大変参考になる本である。この20年ほどの間に公開された、戦争に関する名作55本を一作品4ページでコンパクトに紹介している。どの作品も観たくなるものばかりなのだが、特に観たいと思ったものをブログにリストアップした。順次、感想をアップしていきたい。 → http://chekosan.exblog.jp/26663046/
読了日:2月19日 著者:村瀬広



下り坂をそろそろと下る (講談社現代新書)下り坂をそろそろと下る (講談社現代新書)感想
地方から若い世代が出て行ってしまうのは「つまらない」からである。自己肯定感を引き出すような文化政策とハイセンスなイメージづくりが必要である。とりわけ子どもが小さいころから本物に触れる機会を設けること。幅広い視野、人の状況に思いをはせる力、マナーや振る舞いが必要で、それこそがコミュニケーション能力なのだが、それを養うには20歳ごろまでの環境が影響するのである。本書で紹介している自治体や大学などはいずれもかなりハンデがある地方だが、新しい文化の拠点、新しい試みが成功しているところとして注目を集めている。
読了日:2月20日 著者:平田オリザ
詳しい感想はこちら→ http://chekosan.exblog.jp/26667213/



ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)感想
一つのテーマをめぐって、さまざまなジャンルの専門家と語るというスタイルは面白い。思いがけない知識や視点を得られる。本書もしばらくは笑い飛ばしながら、うんうんと読んだ。が、そのうちあらゆる現象がヤンキー文化としてくくられ、私も立派にヤンキー精神を備えているという結論に至ってしまった。なるほどそれなら9割の人は該当するわ…斎藤氏自身もヤンキー的なるものを内在しているというし、すべてを断罪しているわけではない。が、ではどうするという指針がほしい気がする。それは精神病理学者の役割ではないのかもしれないが。
読了日:2月21日 著者:斎藤環
詳しい感想はこちら→ http://chekosan.exblog.jp/26669415/



学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)感想
著者の専門である乳幼児の語彙の習得の観察実験から得られた知見がやはり面白い。熟達者や超一流とみなされる人々の「学び」や「学習」の謎にも迫っている。断片的な知識をぺたぺた貼り付けていくことが知識の獲得であるとする「知識観」から脱すること、「生きた知識」とは、常にダイナミックに変動するシステムであること、集中して訓練すること、その訓練を忍耐強く続けること、その経験を通して大局観を養うことが大事であることが明らかにされる。どちらかというと幼少期の教育や世話に有効だが、育ってしまった子どもや大人にも参考になる。
読了日:2月23日 著者:今井むつみ 詳しい感想はこちら → http://chekosan.exblog.jp/26674277/




わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)感想
すーっと入ってくる一冊。腑に落ちると言う表現がぴったり。異なる価値観を持った人と出会うことで自分の意見が変わっていくことを潔しとする「対話的精神」を養っていく必要があるという指摘に同意する。「協調性」(価値観を一つにして一致団結)から「社交性」(価値観はバラバラなままでどうにかしてうまくやっていく能力)を養う教育へという考え方にも賛同する。そういう意識で私も授業をしてきたが、これまで以上にスキルの問題、マナーの問題、教える側の力量の問題として見直しをはからねばと思う。その他いろいろブログに記録。→ こちら  http://chekosan.exblog.jp/26681952/
読了日:2月26日 著者:平田オリザ




読書メーター

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# by chekosan | 2017-03-02 09:46 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

今年の映画第10弾、「フランス組曲」。
バッハ?と思わせるタイトルですが、第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたフランスでのお話。
駐留ドイツ軍将校と彼に部屋を提供させられるお屋敷の若奥様(若い貞淑な女性)の悲恋物語。

アウシュビッツ強制収容所で亡くなったユダヤ人女性作家の未完の遺稿が原作です。
死後60年の間、日記と思って保管していた遺族が小説ということに気づき、出版されました。



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ある作品を、その作品の内容そのものだけで評価するのか、
あるいは、作者の生涯なども含めて評価するのかは意見の分かれるところかと思います。

現代のベートーヴェンと称された作曲家による楽曲が
実はゴーストライターの作品だったことが明らかになったときにも
そうした議論が噴出しました。

本作も、作者の悲劇、戦後70年経って発見された事実を前面に打ち出しています。
実際、私もその点にひかれて鑑賞しました。
この作品のストーリーからして、作者と遺稿がたどった運命を語らないのは不自然でしょう。

では作品そのものはどうか。

大筋は、敵同士、既婚者同士の悲恋ですが、それだけではありません。
どちらの側も善人ばかりでもなければ悪人ばかりでもない、
ひとりの人にも善良で懐の深い部分と狭量な部分があり、寛大な部分と残忍な部分があることを、
綺麗で品のある映像とストーリーと衝撃的過ぎない場面や展開で見せてくれる映画でした。

姑の威厳に耐えるばかりだった主人公が、徐々に意思を持って行動するようになるところ、
それも、将校に惹かれながらも、知人友人や虐げられた人を優先する流れも良かったです。

以下、印象に残った部分を記録。多少ネタバレありです。





・ドイツ人将校とピアノ
 主人公の家に寄宿するドイツ軍将校(中尉)は貴族出身で、品がある人物です。
 兵士たちの粗暴な振る舞いを一喝するような真面目な人です。
 
 軍では当然ドイツ語を話しますが、駐屯地の町ではその土地の言葉を話すインテリです。
 (この映画、舞台はフランスですがイギリス制作なのでセリフは英語主体ですが…)

 この中尉は軍人一家に生まれたのですが、戦前は作曲家として活躍していました。
 そこで、主人公が父親から贈られた大切なピアノを借りて、夜な夜な作曲をします。
 主人公はその姿を見て、憎むべき敵の将校なのに心を動かされます。

 パターンも性別の組み合わせも違うのですが、ポランスキ監督の「戦場のピアニスト」では、
 ワルシャワのゲットーに隠れて生きのびたユダヤ人ピアニストを、
 ドイツ人将校が匿うというシーンが印象的でした。
 この将校自身もピアノを嗜む、品のある人という設定でした。

 ただ、将校クラスがみんな品があって教養があるというわけでもないようで、
 本作に出てくる別の中尉は、いいとこのボンボンだからと、
 いかにも若造のくせに取り立てられているのですが、粗野で下品です。


劇中の曲と楽譜と贈り物??
 将校の未発表自作曲の楽譜の冒頭がチラッと映ります。
 予告編でも流れているメロディは、その二段目くらいからです。
 でも、映画のなかで何度も流れる象徴的なメロディと、
 画面に映る楽譜とがちょっと違ったような…?
 すてきな曲なので、全曲を通して聴いて、楽譜を手に入れたいなと思いました。

 ところで、将校が執務室代わりに使っている書斎に、将校の留守中に入り込んだ主人公が、
 見とがめられて忘れ物を探しに来たのだと言い訳をします。
 後日、将校が「これを忘れたのでしょう」と言ってリボンのかかった箱を渡します。
 中にはメモの切れ端?が一枚。これが一瞬でよくわからなかった!
 曲名が書いていたような気もするのですが。。。なんだったのだろう。



見せしめ処刑と銃殺刑 (この項、ネタバレ)
 町民とドイツ軍との間にいざこざが起こり、ある将校を殺した犯人の農夫が追われます。
 ドイツ軍は威信をかけて探すのですが見つかりません。
 そこで、誰でもいいから見せしめに5人を処刑せよという命令が下りますが、
 駐屯の責任者である少佐は軍上層部に掛け合って町の名士一人を処刑することにします。

 処刑は町の広場で行われます。
 代わりの人物を椅子に座らせ、数人の兵士が一斉に撃ちます。
 誰が殺したかをわからなくするためです。
 
 第一次世界大戦の様子を描いたチェコの風刺文学『兵士シュヴェイクの冒険』で、
 土地の民でスパイが疑われる者や敵方に対しては「銃殺ではなく絞首刑にしろ」
 と息巻く上官が出てきます。絞首刑は銃殺よりも名誉ではないとされたのです。
 
 犯人である農夫が捕まった場合、あるいは5人が見せしめで処刑された場合、
 果たして処刑の仕方も違ったのでしょうか…

 ドイツ占領下のフランスでの見せしめ処刑といえば、
 映画「シャトーブリアン」もそうしたテーマを扱っているようですね。
 こちらは未見なのでいずれ見たいと思います。


 さらに、見せしめに関係のない人々が殺された事件といえば、
 チェコのリディツェ村の規模が特筆されます。
 ドイツ軍の幹部の暗殺への報復として、村を丸ごと消滅させられました。

 成人男性173名はその場で全員殺害され、成人女性は収容所送りに、
 子どもたちはドイツ人家庭に養子に出されたり収容所に送られたりされ、
 家屋、教会、墓地に至るまで破壊され、何も残っていません。

  
◇◇◇

作品の内容や歴史的事実との関連では、そんなことが気になりました。
あとは、主人公のワンピースが清楚でとても可愛らしかったことが印象に残りました。





 





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# by chekosan | 2017-03-01 15:27 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

今年の美術展第2弾は、大阪中之島の国立国際美術館で開催されている「クラーナハ展」。

16世紀、ドイツの宮廷画家として活躍した画家です。
工房を構えて、たくさんの作品を生み出した経営者でもありました。

デューラーと同時期で、題材や画法によっては画風がそっくりです。
サインがないとわからないものも。

宗教改革のマルティン=ルターと親交が深く、何枚も肖像画を描いています。

でも代表作は、このあたりかと思います。↓
妙に体が薄くて均整とれていないのですが、それがなんとも独特な雰囲気です。


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大看板に、顔出しパネル。
最近の美術展は、こういう撮影ポイントを作ってくれているのが楽しいです。

平日に行ったからか、お客さんが少なく、じっくり絵を観ることができました。
顔出しパネルも誰ひとり顔を突っ込もうとしないので、
せっせと何枚もパネルだけ撮ったり、一枚だけ顔を突っ込んで友人に撮ってもらったりしました。
顔出し写真は、しかし、私の顔面はまったく面白みが出ないと判明したので永久お蔵入りにします。



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美術展のお楽しみ、グッズ売り場ですが、今回はテープを購入しました。
これは顔出しパネルの彼女、ユディト嬢がつけている首飾りをモチーフにしています。

なかなか凝ったテープなので、贈り物やカードに使ったら素敵かな。


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点数も多く、短い解説映画も流れていて、ていねいな展示だと思いました。
若干、解説と作品の配置がよくわからない箇所もありましたが、
じっくり見ることができたので、クラーナハとその工房の作風、生涯、
美術史における位置づけなどが理解できました。




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# by chekosan | 2017-03-01 00:17 | 美術 | Trackback | Comments(0)

すーーっと入ってくる一冊、いや先日読んだ『下り坂をそろそろと下る』と合わせると2冊。
平田オリザ氏の著作やお話は、まさに腑に落ちると言う表現がぴったりくる。
本書は、あまりに一気に読めてしまって、メモを取るヒマすらなかった。

◇◇◇

コミュニケーション能力が必要とかまびすしいが、さてそれはどういうものかというとはっきりしない。

主体的であること、自分の意見をはっきり言うことを求められながら、
同時に空気を読め和を乱すなと言われるような、「ダブルバインド(二重拘束)」、
つまり二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制される状態が見られる。

日本社会全体は、「異文化理解能力」と日本型「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

平田氏は、いまの子どもや若者にコミュニケーション能力がないとは思っていない。

そもそもコミュニケーションの方法にもいろいろあって、
たとえば身体による表現は、中高年男性よりも若者の方がよっぽど優れているという。

しかも、いま日本で求められている「コミュニケーション能力」と呼ばれるものの大半は、
ほとんどがスキルやマナーの問題であり、教育可能なものである。

ただし、コミュニケーション能力=ペラペラしゃべることではない。

価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべりである「会話」と、
あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、
あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺り合わせである「対話」とは違う。

日本社会の「わかりあう文化」「察しあう文化」においては、
この「対話」の習慣や訓練が成り立っていないのではないかと平田氏は指摘する。

異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度、
議論をすること自体に意義を見いだす「対話的精神」を養っていく必要があるのでないかという。
これは、AかBかで論戦をして相手を打ち負かすこととも区別される。


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◇◇◇

言葉や表現というのは、関係がなければ生まれないという指摘も非常に納得できる。

例えば、男性上司の部下に対する言葉づかいを女性上司が部下にすると違和感がある。
それは、そのような関係性が最近までなかったからである。

では、男女関係なく、きちんとした場で上下関係なく使っておかしくない言葉遣いはと考えると、
少し丁寧な、きちんとした言い回しだろうということになる。
ならば、みながそうしたきちんとした言い回しを定着させていくのが適当であろう。

そうした実践が、無意識のうちにある上下関係や性差を越えて
「対話」や議論のできる関係性や場をつくっていくのである。

◇◇◇

この点は、我々の業界(大学教員同士)は相対的にマシだと思う。
良くも悪くも一国一城の主的な意識が強く、それぞれの専門性に敬意を払う習慣があるので、
職階とか性差によって言葉づかいを変えることはほとんどない。
お互いにきちんとした言葉で話し合える環境、議論できる環境は、誰にとっても心地よいと思う。

◇◇◇

では、「対話」ができる関係性をつくるようなコミュニケーション教育とはどうあるべきか。

国語教育では「きちんとしゃべれ」「論理的にしゃべれ」「無駄なことは言うな」と指導しがちだが、
「無駄を省く」ようなことばかりを指導していてはいけないのではないか、
「対話」はそういうものではないという指摘には軽くショックを受けた。

さらに、教える側や上司が、つい「答え」を言ってしまったり誘導してしまったり、
子どもや若者や部下が話しかけやすい・言葉を発しやすい場をつくりもせずに
今の若者はコミュニケーションできない、意見も言わない、などと言うのは、
(上司の側に)そうした環境を作る能力がないことの表れだという指摘には反省した。

「協調性」(価値観を一つにして一致団結)から、
「社交性」(価値観はバラバラなままでどうにかしてうまくやっていく能力)へ、
という考え方は私もまさにそのように考えて、そう意識して授業をしてきたが、
どうもうまくいかない場面が生じたとき、コミュニケーション能力と人格を混同し、
どうすればうまくいくかという追究を諦めてしまっていたかもしれない。

これまで以上に、スキルの問題、マナーの問題、教える側の力量の問題として、
コミュニケーション教育の見直しをはからねばと思う次第である。





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# by chekosan | 2017-02-26 23:11 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

これも長く寝かしていたディスク、「ハンナ・アーレント」をようやく観ました。

日本公開当時、中高年層を中心にヒットしているという報道を見ました。
アーレントは「20世紀最大の思想家」と呼ばれ、翻訳書もたくさん出ていますが、
アーレント自身を描いた映画がヒットするというのは意外でした。

今回観てみて、なんとなくわかりました。
まったく派手さやドラマティックな展開はないのですが、
じわじわと効いてきて、もう一度見ようかなと思わせる映画なのです。

特に、アーレントが友人たちと議論する場面や、最後の講義(8分間の演説)シーンは、
思わずメモを取るようなセリフが続きます。


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話は、1960年にナチスの幹部の一人だったアドルフ・アイヒマンが潜伏先のアルゼンチンで捕まって、
イスラエルで裁判を受けることになったところから始まります。

ユダヤ人であるアーレントはドイツでハイデッガーの薫陶を受けます。
しかしハイデッガーはナチスを支持。
アーレントはフランスで一時抑留されますが逃亡に成功し、
亡命先のアメリカで優れた著述家、思想家として活躍します。

アイヒマン逮捕を知ったアーレントは、イスラエルに飛んで裁判を傍聴し、
思考に思考を重ねて、2年をかけて記事にします。

ところが、その考察がナチス擁護であると捉える人が多く、大波乱を起こします。
夫や友人や秘書、記事を掲載した「ニューヨーカー」誌編集長や学生たちは彼女を支持しますが、
読者あるいは読んではいないけど気に食わないと手紙を送ってくる人々、
彼女を裏切り者として絶縁する古いユダヤ人の友人や大学の同僚の批判や非難に、
強い哲学者アーレントも疲弊を隠せなくなります。

それでも力を振り絞って学生たちに「考えること」の大切さを熱弁するスピーチは圧巻です。

「理解を試みるのとゆるしとは別である」「書く者には理解する責任がある」
「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走る」
「“思考の風”がもたらすのは知識ではない。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力である」
「私が望むのは、考えることで人間が強くなること。
 危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

◇◇◇

ディスクには特典映像がついていまして、これがまた興味深いものでした。

アーレントという人物を映画にするにあたっては、師であるハイデッガーとの恋や、
フランスでの抑留体験、亡命などを取り上げることもできたのですが、
あえてそこは避け、私たちが彼女から受け取ったもっとも重要なもの、
すなわち彼女の思想を表現することを追求したのだそうです。

それが一番あらわれるのがアイヒマン裁判をめぐる論争でした。
アイヒマン裁判は映像ですべて記録されているのですが、
制作者たちは、200時間に及ぶ映像をすべて見て、
アーレントの著作や書簡集や伝記を読み込み、関係者に会って構想を練ったそうです。

そして、同時に哲学者といえど机の前でタイプライターを叩いているばかりでない、
ひとりの人としての人生も描こうと、夫や友人との交流や会話、
教員としての仕事のシーンなどもたくさんちりばめたそうです。

その狙いは当たったと思います。
友人たちとのパーティや会話、夫との仲睦まじい様子、若い秘書との信頼関係、
新学期までに授業準備をしなくてはと必死な様子、
学生の憧れと尊敬のまなざしを受ける様子がたいへん印象的でした。

特典映像の監督インタビューの最後、
「アーレントのことはいまだに嫌うユダヤ人も多い、
 彼らが発言すれば論争になるかもしれない、論争は歓迎する」
という発言もカッコイイ!

ちなみに、この映画、監督、制作、脚本が女性です。
ああなるほどという感じがします。やはり女性の描き方が自然でした。

◇◇◇

にしても!

まあ~~~よく煙草を吸う! 
実際にアーレントはヘビースモーカーだったそうですが。

アーレントだけでなく当時はみんなパカパカ吸っていたようですね。
この時代を取り上げた映画では、喫煙シーンが多いですね。
戦後、ナチスを追い詰めたドイツの検事総長バウアーの映画なんかでも
スパスパ吸いまくりでした。
http://chekosan.exblog.jp/26583987/

ただ、バウアーの映画でも若手は吸ってませんし、
アーレントの映画でも、親友メアリーが「煙すぎる」と言うシーンがあるので、
みんながみんなではなさそうですが…

そういえば、、、院生時代に出ていた西洋政治思想の大家W先生の授業もそうだった…
先生の研究室で開かれていたのですが、喫煙率高かったなあ。
なにか関連性があるのでしょうか!?
ま、いまは大学内は全面禁煙、個人研究室といえど禁煙になっていますけどね。 

◇◇◇

本筋とはどんどん離れていきますが、60年代のファッション、いいですね。
アーレントの親友で作家のメアリー・マッカーシーのスーツやドレスがすごくいい。
講義室を埋め尽くす学生たちも古き良きな感じでいいです。

このメアリー役の女優さんはイギリス出身でイギリスの演劇学校で学んだ人で、
アメリカ人作家という役どころなので、英語がクリア。

対して、アーレントと亡命知識人たちはドイツ訛りということになっているので、
なんかさっぱり聞き取れませんでした… (-_-;)





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# by chekosan | 2017-02-25 17:00 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

2017年第8弾。実話をもとにした映画です。
同志社の授業で受講生から教えてもらってディスクを買っていながら一年経ちました。

「黄金のアデーレ」は、19世紀末から20世紀初頭に活躍したグスタフ・クリムトの名画です。
絵のモデルであるアデーレはウィーンの裕福なユダヤ人一家の一員で、芸術家のパトロンでした。

アデーレ自身は若くして病気で亡くなるのですが、そのあとにナチスがオーストリアを併合し、
ウィーンのユダヤ人は過酷な迫害を受けます。
名誉を傷つけられ、財産を没収され、強制収容所に送られていくのです。

アデーレの夫や姪たちも命からがらウィーンを脱出します。
アデーレの姪であるマリア・アルトマンは年老いた両親を残し、
夫とともに決死の脱出を試み、着の身着のままでアメリカにたどり着き、一から生活を築きます。

1998年、オーストリアはナチスが没収した作品を元の所有者に返還する法律を制定します。
マリアは、オーストリア政府を相手取り、一族の思い出の品であるアデーレの肖像画を返還するよう、
友人の息子を弁護士として雇い、訴訟を起こします。

この若い弁護士は、やはりオーストリアからアメリカに逃れた著名な作曲家シェーンベルクの孫です。
青年の曾祖父母はトレブリンカ収容所で亡くなっています。

はじめは乗り気でなかった青年は、お金のためにこの件に着手しますが、
そのうちに出自を自覚し、自らの意思で絵の返還に奔走するようになります。

返還法が制定されたとはいえ、アデーレの肖像画はオーストリアのシンボル的絵画、
オーストリア政府はなかなか返還に応じません。
何年もの歳月をかけてマリアと弁護士は訴訟を続け、とうとう絵はマリアの元に還るのでした。

その後、マリアは他の相続人への遺産分配の必要から、一般公開を条件に絵を売却します。
入手したのは、化粧品会社エスティ・ローダーが開設した美術館ノイエ・ガレリエです。
いまはニューヨークのこの美術館に展示されているとのことです。


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◇◇◇

映画のなかで、オーストリアの人々が、街中にナチスの旗を掲げ、
ドイツ軍に敬礼をして歓迎するシーンが出てきます。

ナチスによるオーストリア併合によって、ユダヤの人々はさまざまな権利をはく奪され、
財産を没収され、出国しようにもできなくなっていきます。

街頭では、大勢の市民がユダヤ人の人々を取り囲んで笑いながら
帽子をとったり髭を剃ったりして、屈辱を味合わせる場面があります。

主人公はそこに居合わせながら、何もできず逃げ去らざるを得ない。
非常に胸の痛むシーンです。

しかし、ナチスドイツのオーストリア併合についてオーストリア国内で歴史を見直す機運、
つまり「オーストリアは一方的な犠牲者である」という認識を再検討する気運が高まってきたのは
比較的最近の話であったと思います。
美術品などを返還する法律ができたのもまさにその流れでしょう。

そうした経験から、主人公は、返還の手続きのためにウィーンに行くことになっても、
かたくなにドイツ語を話そうとしません。

いま穏やかに暮らしているから、過去のことだからという問題ではないのです。

普通の生活を暴力的に中断させられ、家族や友人の命や財産を奪われた人々にとって、
奪われたものを取り戻すことは、金銭だけの問題ではないことは理解したいものです。

私が何度もお世話になったチェコのホストマザーも、
ロシア語やドイツ語は、話せるが使いたくないと、はっきり言っていました。

支配被支配の関係から生じた名誉の毀損や屈辱的な扱いに関することは、
放置していれば溶解するというものではなく、
共感、和解、再評価というプロセスが必要であると思います。

◇◇◇

そうしたことを踏まえて、しかし、
アデーレの肖像画がニューヨークに行ってしまったというのは残念な気がします。

買い取ったローダー氏はナチスによる没収財産の返還にも尽力しているとのことですが、
クリムトは世紀転換期のウィーンを代表する芸術家で、
彼が率いた芸術家の一派「分離派」の作品はやはりウィーンにあってほしい。
1992年に、ウィーンでクリムトやシーレの作品を直接観たときの感動を思い出して、
この映画の結末に感動しつつも、悲しく寂しい気がしたのでした。

◇◇◇

映画で、主人公と弁護士青年が、最初にウィーンに行って空振りに終わったあと、
無駄な旅にしないためにとホロコースト犠牲者を追悼碑を訪ねるシーンがありました。

昔にウィーンに行ったとき、かなりいろいろまわったつもりだったのですが、
こんな建物はなかったのではないかなと思ったら、2000年にできたものでした。
次回、ウィーンに行くことがあったら訪ねてみたいと思います。

◇◇◇

この映画、テーマとしては考えさせられるものを含んでいるのですが、
ちょっと演出が軽めというか情緒的すぎるというかテレビドラマ的なシーンも多いです。

が、主人公(ヘレン・ミレン)はたいへん!!魅力的でした。
おしゃれで強くてチャーミングで自立した女性!
年齢を経てもこんなに素敵な老婦人でいられたらいいなあと惚れ惚れしました。


そして、主人公と弁護士を助けるオーストリア人ジャーナリストを演じた俳優さん!
なんと「グッバイ、レーニン!」の主演男優さんでした。

この映画、東ドイツの消滅(東西ドイツの統一)と家族愛をからめていて大好きなのですが、
あの頼りなげな青年が、こんな貫禄たっぷりに!とびっくりしました。






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# by chekosan | 2017-02-24 12:26 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)
広い意味での「学び」「学習」「知識」について解き明かしてくれる本。
帯にあるように、「学ぶことの大切さ、学ぶ方法を学ぶ大切さがわかる」本であるが、
効率的に「勉強のできる子」や「天才児」を育てるためのノウハウ本ではない。

著者の専門である乳幼児の語彙の習得の観察実験から得られた知見の部分がやはり面白い。

子どもは、胎児のころから言葉を聞いて、音として認識する。
そして、まずは母語で使う音の要素を聞き分けて取捨選択する。
そのうちに単語というものがあることを発見し、それらを類推していく。

そして、自分で言葉というものの枠組みを作り、
そこからの類推で新しい言葉や概念を理解していくのである。
言語のシステム、構造自体を自分で考えて発見し、
言葉を知らないところから、言葉を習得していくのである。

◇◇◇

乳幼児の世話は忍耐や苦渋の連続で、幸福感に浸れる時間などそのごく一部であるが、
言葉の獲得の過程、概念を獲得していく過程を観察できたのは実に面白かった。

絵本を読み聞かせたり、字を教えたり、勉強を教えたりといったいかにもな場面よりも
もっともっと前の段階で、赤子は自分で概念や言葉を体得していく。
赤子といると、ごく日常的な場面でそれが出現するのを見ることができるのである。

何かを飲んで、「おいしい」という感覚と言葉が一致したのを赤子本人が確認した、
その瞬間を明確に見てとったときはエキサイティングであった。

赤子が、この快い感覚を「おいちぃ」と表すのでちゅね、そうでちょ、わかりまちたよ、
といわんばかりの自慢げな表情をして、その言葉を発したのである。

たぶん、赤子の初めての言葉ではなかったと思う。
が、口真似として音を発するのではなく、
感覚・概念・言語が繋がっていることを赤子自身が発見した瞬間だったことで、
初めての言葉よりも、非常に強く印象に残っている。

(口真似だけなら、まだ寝っ転がってるしかないような時期に「おかあさん」とクリアに発声して、
 夫と、ぞぉぉっとしたことがあった。それは音として発しただけで言語の獲得とは違ったと思う。)

だから、男性の友人や後輩、特に研究者、教育関係者の仲間には、
赤ちゃんをよくよくお世話すべしと忠言する。
人間が概念や言葉を習得する過程をつぶさに見られる機会はそうないのだから。


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◇◇◇

本書では、専門家(棋士、音楽家、スポーツマン、バレエダンサーなど)に協力を仰ぎ、
どういう場面で、脳のどの部分がどういう活動をするのかを実験するなど、
熟達者や超一流とみなされる人々の「学び」や「学習」の謎にも迫っている。

何かに特別に秀でた人に対して、私たちは「才能」「天才」という曖昧な言葉をあてはめ、
天賦のもの・遺伝だと済ませがちだが、その何かに秀でるための特定の遺伝子があるわけではない、
IQの高い低いもあまり関係がない、という話も出てくる。

それよりも、
断片的な知識をぺたぺた貼り付けていくことが知識の獲得であるとする「知識観」から脱すること、
「生きた知識」とは、常にダイナミックに変動するシステムであることを理解すること、
集中して訓練すること、その訓練を忍耐強く続けること、
その経験を通して大局観を養うことが大事であることが明らかにされる。

では、家庭で親は何をすべきか、学校教育において何をなすべきかについても触れられている。

どちらかというと、幼少期の子どもに接する人が心にとめるとより良い話が多いが、
育ってしまった子どもや大人にも、もちろん参考になる。

◇◇◇

そう、いくら赤子~幼児期に言葉が早かろうがとっきゅうでんしゃをすべて言えようが、
そんなことは「天才」の印でもなんでもない。
俯瞰すること、地道な努力、集中力、継続することこそが抜きんでた才を育てるのである。
そんなことも実感・痛感する今日この頃である。orz





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# by chekosan | 2017-02-23 17:28 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)