中・東欧、ロシアのこと&大学教育のことを発信します


by chekosan

今年の映画第10弾、「フランス組曲」。
バッハ?と思わせるタイトルですが、第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたフランスでのお話。
駐留ドイツ軍将校と彼に部屋を提供させられるお屋敷の若奥様(若い貞淑な女性)の悲恋物語。

アウシュビッツ強制収容所で亡くなったユダヤ人女性作家の未完の遺稿が原作です。
死後60年の間、日記と思って保管していた遺族が小説ということに気づき、出版されました。



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ある作品を、その作品の内容そのものだけで評価するのか、
あるいは、作者の生涯なども含めて評価するのかは意見の分かれるところかと思います。

現代のベートーヴェンと称された作曲家による楽曲が
実はゴーストライターの作品だったことが明らかになったときにも
そうした議論が噴出しました。

本作も、作者の悲劇、戦後70年経って発見された事実を前面に打ち出しています。
実際、私もその点にひかれて鑑賞しました。
この作品のストーリーからして、作者と遺稿がたどった運命を語らないのは不自然でしょう。

では作品そのものはどうか。

大筋は、敵同士、既婚者同士の悲恋ですが、それだけではありません。
どちらの側も善人ばかりでもなければ悪人ばかりでもない、
ひとりの人にも善良で懐の深い部分と狭量な部分があり、寛大な部分と残忍な部分があることを、
綺麗で品のある映像とストーリーと衝撃的過ぎない場面や展開で見せてくれる映画でした。

姑の威厳に耐えるばかりだった主人公が、徐々に意思を持って行動するようになるところ、
それも、将校に惹かれながらも、知人友人や虐げられた人を優先する流れも良かったです。

以下、印象に残った部分を記録。多少ネタバレありです。





・ドイツ人将校とピアノ
 主人公の家に寄宿するドイツ軍将校(中尉)は貴族出身で、品がある人物です。
 兵士たちの粗暴な振る舞いを一喝するような真面目な人です。
 
 軍では当然ドイツ語を話しますが、駐屯地の町ではその土地の言葉を話すインテリです。
 (この映画、舞台はフランスですがイギリス制作なのでセリフは英語主体ですが…)

 この中尉は軍人一家に生まれたのですが、戦前は作曲家として活躍していました。
 そこで、主人公が父親から贈られた大切なピアノを借りて、夜な夜な作曲をします。
 主人公はその姿を見て、憎むべき敵の将校なのに心を動かされます。

 パターンも性別の組み合わせも違うのですが、ポランスキ監督の「戦場のピアニスト」では、
 ワルシャワのゲットーに隠れて生きのびたユダヤ人ピアニストを、
 ドイツ人将校が匿うというシーンが印象的でした。
 この将校自身もピアノを嗜む、品のある人という設定でした。

 ただ、将校クラスがみんな品があって教養があるというわけでもないようで、
 本作に出てくる別の中尉は、いいとこのボンボンだからと、
 いかにも若造のくせに取り立てられているのですが、粗野で下品です。


劇中の曲と楽譜と贈り物??
 将校の未発表自作曲の楽譜の冒頭がチラッと映ります。
 予告編でも流れているメロディは、その二段目くらいからです。
 でも、映画のなかで何度も流れる象徴的なメロディと、
 画面に映る楽譜とがちょっと違ったような…?
 すてきな曲なので、全曲を通して聴いて、楽譜を手に入れたいなと思いました。

 ところで、将校が執務室代わりに使っている書斎に、将校の留守中に入り込んだ主人公が、
 見とがめられて忘れ物を探しに来たのだと言い訳をします。
 後日、将校が「これを忘れたのでしょう」と言ってリボンのかかった箱を渡します。
 中にはメモの切れ端?が一枚。これが一瞬でよくわからなかった!
 曲名が書いていたような気もするのですが。。。なんだったのだろう。



見せしめ処刑と銃殺刑 (この項、ネタバレ)
 町民とドイツ軍との間にいざこざが起こり、ある将校を殺した犯人の農夫が追われます。
 ドイツ軍は威信をかけて探すのですが見つかりません。
 そこで、誰でもいいから見せしめに5人を処刑せよという命令が下りますが、
 駐屯の責任者である少佐は軍上層部に掛け合って町の名士一人を処刑することにします。

 処刑は町の広場で行われます。
 代わりの人物を椅子に座らせ、数人の兵士が一斉に撃ちます。
 誰が殺したかをわからなくするためです。
 
 第一次世界大戦の様子を描いたチェコの風刺文学『兵士シュヴェイクの冒険』で、
 土地の民でスパイが疑われる者や敵方に対しては「銃殺ではなく絞首刑にしろ」
 と息巻く上官が出てきます。絞首刑は銃殺よりも名誉ではないとされたのです。
 
 犯人である農夫が捕まった場合、あるいは5人が見せしめで処刑された場合、
 果たして処刑の仕方も違ったのでしょうか…

 ドイツ占領下のフランスでの見せしめ処刑といえば、
 映画「シャトーブリアン」もそうしたテーマを扱っているようですね。
 こちらは未見なのでいずれ見たいと思います。


 さらに、見せしめに関係のない人々が殺された事件といえば、
 チェコのリディツェ村の規模が特筆されます。
 ドイツ軍の幹部の暗殺への報復として、村を丸ごと消滅させられました。

 成人男性173名はその場で全員殺害され、成人女性は収容所送りに、
 子どもたちはドイツ人家庭に養子に出されたり収容所に送られたりされ、
 家屋、教会、墓地に至るまで破壊され、何も残っていません。

  
◇◇◇

作品の内容や歴史的事実との関連では、そんなことが気になりました。
あとは、主人公のワンピースが清楚でとても可愛らしかったことが印象に残りました。





 





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# by chekosan | 2017-03-01 15:27 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

今年の美術展第2弾は、大阪中之島の国立国際美術館で開催されている「クラーナハ展」。

16世紀、ドイツの宮廷画家として活躍した画家です。
工房を構えて、たくさんの作品を生み出した経営者でもありました。

デューラーと同時期で、題材や画法によっては画風がそっくりです。
サインがないとわからないものも。

宗教改革のマルティン=ルターと親交が深く、何枚も肖像画を描いています。

でも代表作は、このあたりかと思います。↓
妙に体が薄くて均整とれていないのですが、それがなんとも独特な雰囲気です。


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大看板に、顔出しパネル。
最近の美術展は、こういう撮影ポイントを作ってくれているのが楽しいです。

平日に行ったからか、お客さんが少なく、じっくり絵を観ることができました。
顔出しパネルも誰ひとり顔を突っ込もうとしないので、
せっせと何枚もパネルだけ撮ったり、一枚だけ顔を突っ込んで友人に撮ってもらったりしました。
顔出し写真は、しかし、私の顔面はまったく面白みが出ないと判明したので永久お蔵入りにします。



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美術展のお楽しみ、グッズ売り場ですが、今回はテープを購入しました。
これは顔出しパネルの彼女、ユディト嬢がつけている首飾りをモチーフにしています。

なかなか凝ったテープなので、贈り物やカードに使ったら素敵かな。


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点数も多く、短い解説映画も流れていて、ていねいな展示だと思いました。
若干、解説と作品の配置がよくわからない箇所もありましたが、
じっくり見ることができたので、クラーナハとその工房の作風、生涯、
美術史における位置づけなどが理解できました。




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# by chekosan | 2017-03-01 00:17 | 美術 | Trackback | Comments(0)

すーーっと入ってくる一冊、いや先日読んだ『下り坂をそろそろと下る』と合わせると2冊。
平田オリザ氏の著作やお話は、まさに腑に落ちると言う表現がぴったりくる。
本書は、あまりに一気に読めてしまって、メモを取るヒマすらなかった。

◇◇◇

コミュニケーション能力が必要とかまびすしいが、さてそれはどういうものかというとはっきりしない。

主体的であること、自分の意見をはっきり言うことを求められながら、
同時に空気を読め和を乱すなと言われるような、「ダブルバインド(二重拘束)」、
つまり二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制される状態が見られる。

日本社会全体は、「異文化理解能力」と日本型「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

平田氏は、いまの子どもや若者にコミュニケーション能力がないとは思っていない。

そもそもコミュニケーションの方法にもいろいろあって、
たとえば身体による表現は、中高年男性よりも若者の方がよっぽど優れているという。

しかも、いま日本で求められている「コミュニケーション能力」と呼ばれるものの大半は、
ほとんどがスキルやマナーの問題であり、教育可能なものである。

ただし、コミュニケーション能力=ペラペラしゃべることではない。

価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべりである「会話」と、
あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換、
あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺り合わせである「対話」とは違う。

日本社会の「わかりあう文化」「察しあう文化」においては、
この「対話」の習慣や訓練が成り立っていないのではないかと平田氏は指摘する。

異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度、
議論をすること自体に意義を見いだす「対話的精神」を養っていく必要があるのでないかという。
これは、AかBかで論戦をして相手を打ち負かすこととも区別される。


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◇◇◇

言葉や表現というのは、関係がなければ生まれないという指摘も非常に納得できる。

例えば、男性上司の部下に対する言葉づかいを女性上司が部下にすると違和感がある。
それは、そのような関係性が最近までなかったからである。

では、男女関係なく、きちんとした場で上下関係なく使っておかしくない言葉遣いはと考えると、
少し丁寧な、きちんとした言い回しだろうということになる。
ならば、みながそうしたきちんとした言い回しを定着させていくのが適当であろう。

そうした実践が、無意識のうちにある上下関係や性差を越えて
「対話」や議論のできる関係性や場をつくっていくのである。

◇◇◇

この点は、我々の業界(大学教員同士)は相対的にマシだと思う。
良くも悪くも一国一城の主的な意識が強く、それぞれの専門性に敬意を払う習慣があるので、
職階とか性差によって言葉づかいを変えることはほとんどない。
お互いにきちんとした言葉で話し合える環境、議論できる環境は、誰にとっても心地よいと思う。

◇◇◇

では、「対話」ができる関係性をつくるようなコミュニケーション教育とはどうあるべきか。

国語教育では「きちんとしゃべれ」「論理的にしゃべれ」「無駄なことは言うな」と指導しがちだが、
「無駄を省く」ようなことばかりを指導していてはいけないのではないか、
「対話」はそういうものではないという指摘には軽くショックを受けた。

さらに、教える側や上司が、つい「答え」を言ってしまったり誘導してしまったり、
子どもや若者や部下が話しかけやすい・言葉を発しやすい場をつくりもせずに
今の若者はコミュニケーションできない、意見も言わない、などと言うのは、
(上司の側に)そうした環境を作る能力がないことの表れだという指摘には反省した。

「協調性」(価値観を一つにして一致団結)から、
「社交性」(価値観はバラバラなままでどうにかしてうまくやっていく能力)へ、
という考え方は私もまさにそのように考えて、そう意識して授業をしてきたが、
どうもうまくいかない場面が生じたとき、コミュニケーション能力と人格を混同し、
どうすればうまくいくかという追究を諦めてしまっていたかもしれない。

これまで以上に、スキルの問題、マナーの問題、教える側の力量の問題として、
コミュニケーション教育の見直しをはからねばと思う次第である。





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# by chekosan | 2017-02-26 23:11 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

これも長く寝かしていたディスク、「ハンナ・アーレント」をようやく観ました。

日本公開当時、中高年層を中心にヒットしているという報道を見ました。
アーレントは「20世紀最大の思想家」と呼ばれ、翻訳書もたくさん出ていますが、
アーレント自身を描いた映画がヒットするというのは意外でした。

今回観てみて、なんとなくわかりました。
まったく派手さやドラマティックな展開はないのですが、
じわじわと効いてきて、もう一度見ようかなと思わせる映画なのです。

特に、アーレントが友人たちと議論する場面や、最後の講義(8分間の演説)シーンは、
思わずメモを取るようなセリフが続きます。


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話は、1960年にナチスの幹部の一人だったアドルフ・アイヒマンが潜伏先のアルゼンチンで捕まって、
イスラエルで裁判を受けることになったところから始まります。

ユダヤ人であるアーレントはドイツでハイデッガーの薫陶を受けます。
しかしハイデッガーはナチスを支持。
アーレントはフランスで一時抑留されますが逃亡に成功し、
亡命先のアメリカで優れた著述家、思想家として活躍します。

アイヒマン逮捕を知ったアーレントは、イスラエルに飛んで裁判を傍聴し、
思考に思考を重ねて、2年をかけて記事にします。

ところが、その考察がナチス擁護であると捉える人が多く、大波乱を起こします。
夫や友人や秘書、記事を掲載した「ニューヨーカー」誌編集長や学生たちは彼女を支持しますが、
読者あるいは読んではいないけど気に食わないと手紙を送ってくる人々、
彼女を裏切り者として絶縁する古いユダヤ人の友人や大学の同僚の批判や非難に、
強い哲学者アーレントも疲弊を隠せなくなります。

それでも力を振り絞って学生たちに「考えること」の大切さを熱弁するスピーチは圧巻です。

「理解を試みるのとゆるしとは別である」「書く者には理解する責任がある」
「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走る」
「“思考の風”がもたらすのは知識ではない。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力である」
「私が望むのは、考えることで人間が強くなること。
 危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

◇◇◇

ディスクには特典映像がついていまして、これがまた興味深いものでした。

アーレントという人物を映画にするにあたっては、師であるハイデッガーとの恋や、
フランスでの抑留体験、亡命などを取り上げることもできたのですが、
あえてそこは避け、私たちが彼女から受け取ったもっとも重要なもの、
すなわち彼女の思想を表現することを追求したのだそうです。

それが一番あらわれるのがアイヒマン裁判をめぐる論争でした。
アイヒマン裁判は映像ですべて記録されているのですが、
制作者たちは、200時間に及ぶ映像をすべて見て、
アーレントの著作や書簡集や伝記を読み込み、関係者に会って構想を練ったそうです。

そして、同時に哲学者といえど机の前でタイプライターを叩いているばかりでない、
ひとりの人としての人生も描こうと、夫や友人との交流や会話、
教員としての仕事のシーンなどもたくさんちりばめたそうです。

その狙いは当たったと思います。
友人たちとのパーティや会話、夫との仲睦まじい様子、若い秘書との信頼関係、
新学期までに授業準備をしなくてはと必死な様子、
学生の憧れと尊敬のまなざしを受ける様子がたいへん印象的でした。

特典映像の監督インタビューの最後、
「アーレントのことはいまだに嫌うユダヤ人も多い、
 彼らが発言すれば論争になるかもしれない、論争は歓迎する」
という発言もカッコイイ!

ちなみに、この映画、監督、制作、脚本が女性です。
ああなるほどという感じがします。やはり女性の描き方が自然でした。

◇◇◇

にしても!

まあ~~~よく煙草を吸う! 
実際にアーレントはヘビースモーカーだったそうですが。

アーレントだけでなく当時はみんなパカパカ吸っていたようですね。
この時代を取り上げた映画では、喫煙シーンが多いですね。
戦後、ナチスを追い詰めたドイツの検事総長バウアーの映画なんかでも
スパスパ吸いまくりでした。
http://chekosan.exblog.jp/26583987/

ただ、バウアーの映画でも若手は吸ってませんし、
アーレントの映画でも、親友メアリーが「煙すぎる」と言うシーンがあるので、
みんながみんなではなさそうですが…

そういえば、、、院生時代に出ていた西洋政治思想の大家W先生の授業もそうだった…
先生の研究室で開かれていたのですが、喫煙率高かったなあ。
なにか関連性があるのでしょうか!?
ま、いまは大学内は全面禁煙、個人研究室といえど禁煙になっていますけどね。 

◇◇◇

本筋とはどんどん離れていきますが、60年代のファッション、いいですね。
アーレントの親友で作家のメアリー・マッカーシーのスーツやドレスがすごくいい。
講義室を埋め尽くす学生たちも古き良きな感じでいいです。

このメアリー役の女優さんはイギリス出身でイギリスの演劇学校で学んだ人で、
アメリカ人作家という役どころなので、英語がクリア。

対して、アーレントと亡命知識人たちはドイツ訛りということになっているので、
なんかさっぱり聞き取れませんでした… (-_-;)





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# by chekosan | 2017-02-25 17:00 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

2017年第8弾。実話をもとにした映画です。
同志社の授業で受講生から教えてもらってディスクを買っていながら一年経ちました。

「黄金のアデーレ」は、19世紀末から20世紀初頭に活躍したグスタフ・クリムトの名画です。
絵のモデルであるアデーレはウィーンの裕福なユダヤ人一家の一員で、芸術家のパトロンでした。

アデーレ自身は若くして病気で亡くなるのですが、そのあとにナチスがオーストリアを併合し、
ウィーンのユダヤ人は過酷な迫害を受けます。
名誉を傷つけられ、財産を没収され、強制収容所に送られていくのです。

アデーレの夫や姪たちも命からがらウィーンを脱出します。
アデーレの姪であるマリア・アルトマンは年老いた両親を残し、
夫とともに決死の脱出を試み、着の身着のままでアメリカにたどり着き、一から生活を築きます。

1998年、オーストリアはナチスが没収した作品を元の所有者に返還する法律を制定します。
マリアは、オーストリア政府を相手取り、一族の思い出の品であるアデーレの肖像画を返還するよう、
友人の息子を弁護士として雇い、訴訟を起こします。

この若い弁護士は、やはりオーストリアからアメリカに逃れた著名な作曲家シェーンベルクの孫です。
青年の曾祖父母はトレブリンカ収容所で亡くなっています。

はじめは乗り気でなかった青年は、お金のためにこの件に着手しますが、
そのうちに出自を自覚し、自らの意思で絵の返還に奔走するようになります。

返還法が制定されたとはいえ、アデーレの肖像画はオーストリアのシンボル的絵画、
オーストリア政府はなかなか返還に応じません。
何年もの歳月をかけてマリアと弁護士は訴訟を続け、とうとう絵はマリアの元に還るのでした。

その後、マリアは他の相続人への遺産分配の必要から、一般公開を条件に絵を売却します。
入手したのは、化粧品会社エスティ・ローダーが開設した美術館ノイエ・ガレリエです。
いまはニューヨークのこの美術館に展示されているとのことです。


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◇◇◇

映画のなかで、オーストリアの人々が、街中にナチスの旗を掲げ、
ドイツ軍に敬礼をして歓迎するシーンが出てきます。

ナチスによるオーストリア併合によって、ユダヤの人々はさまざまな権利をはく奪され、
財産を没収され、出国しようにもできなくなっていきます。

街頭では、大勢の市民がユダヤ人の人々を取り囲んで笑いながら
帽子をとったり髭を剃ったりして、屈辱を味合わせる場面があります。

主人公はそこに居合わせながら、何もできず逃げ去らざるを得ない。
非常に胸の痛むシーンです。

しかし、ナチスドイツのオーストリア併合についてオーストリア国内で歴史を見直す機運、
つまり「オーストリアは一方的な犠牲者である」という認識を再検討する気運が高まってきたのは
比較的最近の話であったと思います。
美術品などを返還する法律ができたのもまさにその流れでしょう。

そうした経験から、主人公は、返還の手続きのためにウィーンに行くことになっても、
かたくなにドイツ語を話そうとしません。

いま穏やかに暮らしているから、過去のことだからという問題ではないのです。

普通の生活を暴力的に中断させられ、家族や友人の命や財産を奪われた人々にとって、
奪われたものを取り戻すことは、金銭だけの問題ではないことは理解したいものです。

私が何度もお世話になったチェコのホストマザーも、
ロシア語やドイツ語は、話せるが使いたくないと、はっきり言っていました。

支配被支配の関係から生じた名誉の毀損や屈辱的な扱いに関することは、
放置していれば溶解するというものではなく、
共感、和解、再評価というプロセスが必要であると思います。

◇◇◇

そうしたことを踏まえて、しかし、
アデーレの肖像画がニューヨークに行ってしまったというのは残念な気がします。

買い取ったローダー氏はナチスによる没収財産の返還にも尽力しているとのことですが、
クリムトは世紀転換期のウィーンを代表する芸術家で、
彼が率いた芸術家の一派「分離派」の作品はやはりウィーンにあってほしい。
1992年に、ウィーンでクリムトやシーレの作品を直接観たときの感動を思い出して、
この映画の結末に感動しつつも、悲しく寂しい気がしたのでした。

◇◇◇

映画で、主人公と弁護士青年が、最初にウィーンに行って空振りに終わったあと、
無駄な旅にしないためにとホロコースト犠牲者を追悼碑を訪ねるシーンがありました。

昔にウィーンに行ったとき、かなりいろいろまわったつもりだったのですが、
こんな建物はなかったのではないかなと思ったら、2000年にできたものでした。
次回、ウィーンに行くことがあったら訪ねてみたいと思います。

◇◇◇

この映画、テーマとしては考えさせられるものを含んでいるのですが、
ちょっと演出が軽めというか情緒的すぎるというかテレビドラマ的なシーンも多いです。

が、主人公(ヘレン・ミレン)はたいへん!!魅力的でした。
おしゃれで強くてチャーミングで自立した女性!
年齢を経てもこんなに素敵な老婦人でいられたらいいなあと惚れ惚れしました。


そして、主人公と弁護士を助けるオーストリア人ジャーナリストを演じた俳優さん!
なんと「グッバイ、レーニン!」の主演男優さんでした。

この映画、東ドイツの消滅(東西ドイツの統一)と家族愛をからめていて大好きなのですが、
あの頼りなげな青年が、こんな貫禄たっぷりに!とびっくりしました。






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# by chekosan | 2017-02-24 12:26 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)
広い意味での「学び」「学習」「知識」について解き明かしてくれる本。
帯にあるように、「学ぶことの大切さ、学ぶ方法を学ぶ大切さがわかる」本であるが、
効率的に「勉強のできる子」や「天才児」を育てるためのノウハウ本ではない。

著者の専門である乳幼児の語彙の習得の観察実験から得られた知見の部分がやはり面白い。

子どもは、胎児のころから言葉を聞いて、音として認識する。
そして、まずは母語で使う音の要素を聞き分けて取捨選択する。
そのうちに単語というものがあることを発見し、それらを類推していく。

そして、自分で言葉というものの枠組みを作り、
そこからの類推で新しい言葉や概念を理解していくのである。
言語のシステム、構造自体を自分で考えて発見し、
言葉を知らないところから、言葉を習得していくのである。

◇◇◇

乳幼児の世話は忍耐や苦渋の連続で、幸福感に浸れる時間などそのごく一部であるが、
言葉の獲得の過程、概念を獲得していく過程を観察できたのは実に面白かった。

絵本を読み聞かせたり、字を教えたり、勉強を教えたりといったいかにもな場面よりも
もっともっと前の段階で、赤子は自分で概念や言葉を体得していく。
赤子といると、ごく日常的な場面でそれが出現するのを見ることができるのである。

何かを飲んで、「おいしい」という感覚と言葉が一致したのを赤子本人が確認した、
その瞬間を明確に見てとったときはエキサイティングであった。

赤子が、この快い感覚を「おいちぃ」と表すのでちゅね、そうでちょ、わかりまちたよ、
といわんばかりの自慢げな表情をして、その言葉を発したのである。

たぶん、赤子の初めての言葉ではなかったと思う。
が、口真似として音を発するのではなく、
感覚・概念・言語が繋がっていることを赤子自身が発見した瞬間だったことで、
初めての言葉よりも、非常に強く印象に残っている。

(口真似だけなら、まだ寝っ転がってるしかないような時期に「おかあさん」とクリアに発声して、
 夫と、ぞぉぉっとしたことがあった。それは音として発しただけで言語の獲得とは違ったと思う。)

だから、男性の友人や後輩、特に研究者、教育関係者の仲間には、
赤ちゃんをよくよくお世話すべしと忠言する。
人間が概念や言葉を習得する過程をつぶさに見られる機会はそうないのだから。


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◇◇◇

本書では、専門家(棋士、音楽家、スポーツマン、バレエダンサーなど)に協力を仰ぎ、
どういう場面で、脳のどの部分がどういう活動をするのかを実験するなど、
熟達者や超一流とみなされる人々の「学び」や「学習」の謎にも迫っている。

何かに特別に秀でた人に対して、私たちは「才能」「天才」という曖昧な言葉をあてはめ、
天賦のもの・遺伝だと済ませがちだが、その何かに秀でるための特定の遺伝子があるわけではない、
IQの高い低いもあまり関係がない、という話も出てくる。

それよりも、
断片的な知識をぺたぺた貼り付けていくことが知識の獲得であるとする「知識観」から脱すること、
「生きた知識」とは、常にダイナミックに変動するシステムであることを理解すること、
集中して訓練すること、その訓練を忍耐強く続けること、
その経験を通して大局観を養うことが大事であることが明らかにされる。

では、家庭で親は何をすべきか、学校教育において何をなすべきかについても触れられている。

どちらかというと、幼少期の子どもに接する人が心にとめるとより良い話が多いが、
育ってしまった子どもや大人にも、もちろん参考になる。

◇◇◇

そう、いくら赤子~幼児期に言葉が早かろうがとっきゅうでんしゃをすべて言えようが、
そんなことは「天才」の印でもなんでもない。
俯瞰すること、地道な努力、集中力、継続することこそが抜きんでた才を育てるのである。
そんなことも実感・痛感する今日この頃である。orz





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# by chekosan | 2017-02-23 17:28 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

斎藤環氏は精神病理学者。サブカルチャー批評などでも活躍している。

本書は、斎藤氏と6人のゲストとの対談を収めている。
一つのテーマをめぐって、さまざまなジャンルの専門家と語るというスタイルは面白い。
よそ様でもそういう本の書評を書かせていただいたが、思いがけない知識や視点を得られ、お得である。

→関西ウーマン 信子先生のおすすめの一冊 『人はなぜ不倫をするのか』(亀山早苗)
 https://www.kansai-woman.net/Review.php?id=201061

本書のテーマは、日本の9割を占めるヤンキー的なるものについて。

村上隆氏(現代アーティスト)とはアートについて、
溝口敦氏(作家、ジャーナリスト)とはヤクザや暴力団とヤンキーとの関係、
デーブ・スペクター氏(プロデューサー、タレント)とは芸能界におけるヤンキー性について、
與那覇潤氏(学者、日本近現代史)とは政治、国家について、
海猫沢めろん氏(文筆家)とは若者から見たヤンキー分析、
隈研吾氏(建築家)とは建築について、それぞれ語っている。


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斎藤氏がヤンキー文化の特徴として挙げるのは次のようなことである。

 バッドセンスな装いや美学、「気合い」がすべて、頭や言葉を使わない行動主義、
 家族や地元といった中間団体に偏った愛=「絆」、個人主義の欠如、
 基本的にはコミュニケーションが得意だが中身はない、
 「夢」や「ポエム」を熱く語るが、その「夢」は実現可能な範囲にとどめておくリアリスト。

本文中には、そうしたものを象徴するキャラクターや作品、人物も出てくる。
あまりに遠慮なく、それらについて面白おかしく述べられているので、
ー いや真面目に語っているのかもしれないが、
  ヤンキー的表現(例えば「○○上等!」とか)はそれ自体が可笑しさを含んでいるのでー
しばらくは笑い飛ばしながら、うんうんあるある、と読んでいた。

なのだが、本書で例示されている具体的作品名やキャラクターや人物を列挙することには躊躇する。
なぜなら、それらを好む人、支持する人が固有名詞で何人も思い浮かぶからである。

斎藤氏が、日本の「9割」がヤンキー文化を受け入れているという主旨のことを書いているとおり、
ここで挙げられているようなヤンキー文化を無批判に好きな人はいっぱいいて、
そうした人の多くは、自分(たち)をヤンキーだとは思っていないだろうと思う。
それどころか、そんなことを考えたこともないだろう。

そんな風に考えたことがないということ自体が問題を孕んでいて、
危険性をも孕んでいると斎藤氏は論じていくのだが、
しかし、かといって、その人たちが頭が悪いとか、頭を使っていないとか、
言葉を尽くそうとしないとか、反知性主義かというと、
具体的な顔が浮かぶ私には一概にそうは言えない。そこがまた難しい。

◇◇◇

などと考えながら読み進めていくと、そのうちあらゆる現象が「ヤンキー」文化としてくくられ、
この論でいくと、私も立派にヤンキー精神を備えているという結論に至ってしまった。
なるほど、あれもそれもヤンキー精神に含めるなら、9割の人は該当するわ… (^^;

斎藤氏自身も、ヤンキー的なるものを内在していることを自覚しているというし、
ヤンキー精神がよい方向に働く場面も多々あると言っている。
すべてを否定的に断罪しているわけではない。

なのだが、もう一歩二歩踏み込んで、ではどうする?という指針を打ち出してほしい気がする。
それは精神病理学者の役割ではないのかもしれないが。

昨日読み終えた平田オリザ氏の具体的実践からの提言が響いただけに、
はじめ楽しく、あと??  という感じは否めない。

とはいえ、一気に読める面白さがあり、細部でいろいろ参考になる本ではあった。

◇◇◇

平田オリザ氏の本。『下り坂をそろそろと下る』の感想はこちらに。
http://chekosan.exblog.jp/26667213/



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# by chekosan | 2017-02-21 17:21 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

平田オリザ氏は世界で活躍する劇作家、演出家で、教育者である。
先日、京都で開かれた国際教養学会の特別講演を聞きに行った。


題目は「教養としてのコミュニケーション能力」。
「グローバルコミュニケーション力」をつけることが急務だと言われているが、
コミュニケーション力とは一体何なのか、
エレベーターで外国の方と一緒になったときにハローと英語で話しかけることなのか。
いやそうではない、人に話しかけるということは、その地の文化や、その人の社会階層的なもの、
居合わせた人たちの関係性やその場の状況によって変わるものであろう、というお話から始まった。

では、どういう状況であれば、人はどう振舞うのか。
ちょっと想像してみること、そして、他人の状況や立場に思いを致すこと、
まったく一体になろうとしなくてもよい、共感しようとすること、
その共感の幅を広げることがコミュニケーションであり、異文化理解である。

平田氏は、演劇を取り入れたワークショップや地域活性化支援で全国津々浦々を駆け巡り、滞在し、
現地の子どもや大人と交流を重ねている。それこそ離島やへき地の小さな学校にも足を運ばれている。
その経験や手腕を買われて、いくつもの大学の新学科創設や入試改革にも携わっておられる。

本書では、そうした各地での実践内容や成果について詳しく紹介し、
日本の国のありかた、地方のまちづくりや、これからの教育のゆくえについて論じている。


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◇◇◇

私たちはすでに下り坂を下りている。日本はアジア唯一の先進国ではない。
この先、人がどんどん増え、右肩上がりに経済が拡大していくことは望めない。
その事実や寂しさに向き合うことを恐れる人々は、人を妬み嫉み憎むことでごまかしている。


地方から人が出て行ってしまう、新しい人が増えないという焦りは募るものの、
その対策はいまだに工場誘致であったり、住宅建設であったりする。

しかし、地方から若い世代が出て行ってしまうのは、実は雇用が少ないからという理由ではないという。
「つまらない」からであるというのである。文化的な刺激がない、偶然の出会いがないからである。

それなら、つまらなくないまちにすればよい、センスを磨けばよい。
選んでもらうまちをつくるには、自己肯定感を引き出すような、広い意味での文化政策と
ハイセンスなイメージづくりが必要なのである。

とりわけ、子どもが小さいころから本物に触れる機会を設けることが重要である。
それもシャワーのように浴びせかけないと、
地方の子どもたちは、いろんな機会が溢れている都市の子たちに太刀打ちできない。

なぜなら、これから必要とされるのは単純な知識量ではないからである。
言われたとおりに動くだけならば、代わりはいくらでもいる。
代わりは人間でさえない。AIで置き換えられるのである。

平田氏は、問題解決能力よりもさらに、問題を発見できる能力が必要だと言う。
それには幅広い視野と、人の状況に思いをはせる力が必要なのである。

ところが、そうした能力やマナーや振る舞い、
ー つまりそれこそがコミュニケーション能力なのだが ー

それを養うには、20歳ごろまでの環境が大きく影響するのである。

小さいころから本物を見たり触れたり体験したりすること、
それによって身体感覚(例えば味覚やセンスなど)を養うには、しかし、
首都圏と大都市圏、地方都市と都市でない地域で、相当に機会の差がある。
そのような「文化資本」の地域格差は何倍どころか、百倍くらい違うという。

さらに、「文化資本」は、家庭の経済状況や親の文化的な習慣にも大きく左右される。
地域格差と経済格差が掛け合わされると、圧倒的な差ができてしまう。

では地方には救いがないのかというとそんなことはない。
本書で平田氏が紹介している自治体や大学などは、いずれもかなりハンデがある地方だが、
新しい文化の拠点、新しい試みが成功しているところとして、
日本中から、世界から、注目を集めている。

◇◇◇

以上は、私がもっとも惹かれた部分を簡単に記したものなので、
詳細はぜひ本書を読んでいただきたい。
わかりやすい文体で、さらさらと読むことができる。おすすめの一冊。







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# by chekosan | 2017-02-20 19:10 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

ある表現方法そのものが好きという場合と、あるジャンルに限って好きという場合があると思う。

私の場合、映画は後者である。
娯楽として楽しむ趣味はなく、特に映画館での鑑賞は苦手であったのだが、
最近、関心のある地域や時代を理解する一助として観るようになった。

研究や教育のネタとして観ているので、これはと思うものに出会えば学生にも紹介したくなる。
紹介すると「ぜひ観たいです」「観ました」「観たことがあります、感動しました」
「先生の紹介が上手なのでどれも観たくなりました」といった嬉しい感想をもらえる。

さらには、「○○も面白かったです」「××も同じようなテーマでした」
「今度△△観に行きます」という情報もどんどん寄せられる。

そうすると、教えてもらった作品も見なくては!と思うようになる。
観れば、作品の作られた経緯や歴史的背景をもっと理解したくなる。

そうして、映画を紹介している記事や本なども集めるようになった。
人間、年をとっても新たなものに目を向けられるものだなあと思う。

そんなわけで、この本。村瀬広『映画は戦争を凝視する』(新日本出版社 2016)。

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映画好きさんと違って、あるジャンルに限って厳選したものを観たい私には大変参考になる本である。

この20年ほどの間に公開された、戦争に関する名作ばかり55作品を集めていて、
一作品2見開き4ページで、あらすじや背景、みどころ、考察などがコンパクトにまとめられている。

どの作品も観たくなるものばかりなのだが、私の教育・研究分野に特に関わりが深く、
特に観たいと思ったものをリストアップし、順次、感想をアップしていきたい。
太字はそのなかでもとりわけ気になる作品。

第2章「子どもを襲う戦争」より
・「縞模様のパジャマの少年」 … 強制収容所の子どもとナチス高官の子どもの話
・「命をつなぐバイオリン」 … ウクライナの2人のユダヤ人音楽天才児の運命
・「さよなら、アドルフ」 … ナチスの子どもたちのその後
・「あの日の声を探して」 … チェチェン紛争と子どもたち

<観た作品>
・「ふたつの名前を持つ少年」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/24898337/

第4章「ヒトラーとナチズム」より
・「マイ・ファーザー」 … ナチス戦犯(メンゲレ)の父と息子
・「ヒトラー 最期の12日間」 … 総統閣下シリーズはいろいろ見ているのですが(^-^;
・「シャトーブリアンからの手紙」 … ドイツ占領下のフランスの悲劇
・「パリよ、永遠に」 … パリはいかに破壊から免れたか

<観た作品>
・「顔のないヒトラーたち」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25950775/

第5章「ホロコースト・強制収容所の諸相」より
・「灰の記憶」 … 収容所専属ユダヤ人労働者の反乱
・「ソハの地下水道」 … 普通の人がなぜユダヤ人を救ったのか
・「遥かなる帰郷」 … プリーモ・レーヴィの『休戦』の映画化
・「ハンナ・アーレント」 … だいぶ前にDVDを買っているのに、、、

第6章「戦争に病む社会と人間」より
・「パーフェクト・サークル」 … ユーゴ紛争、サラエボ戦争の実相
・「消えた声が、その名を呼ぶ」 … アルメニア人の悲劇に踏み込む
・「東ベルリンから来た女」 … 東西ドイツの知られざる関係 
   ドイツ行きの飛行機で上映していたのに寝てしまった、、、
・「ドレスデン、運命の日」 … 芸術都市がなぜ爆撃されたのか

<観た作品>
・「カティンの森」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25006393/
・「善き人のためのソナタ」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25224694/







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# by chekosan | 2017-02-19 00:44 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

サロン的空間をやたら夢想していた時期があった。

家に収められない本を並べ、趣味の合う人と話したり食べたり音楽を聴いたりしたいなあ、
それもできれば雰囲気のあるちょっと古い建物とか、と。

建築士と家をつくり、その家を住みこなしていくことで自分の空間を持つ欲はいったん満たされた。
日々の仕事や家事育児に忙殺され、しばらく別宅サロン構想は頭から遠のいていた。

勤務先にも研究室を持つようになって、
本を収めたり、業務上・教育研究上の相談をしたりする空間には困らなくなった。

真夏の数日間、あああ避暑地に別荘が欲しい! 冷房のいらないところで知的活動をしたい! 
そこで人と小さな集まりをもったら楽しそう! と猛烈に別荘欲が募ることはある。

「第三の居場所」「サードプレイス」といった系の言葉や活動の事例にも異様に惹かれる。

が、空間としての、物体としての不動産を、自宅と別にどうしても私有したいのかというと、
どうもそれとは違うように思えてきた(余裕があれば持つことにやぶさかではないが)。

だいたい私は、人が少なすぎるところとか、何もないところとか、
車でないと行けないようなところにじっとしてはいられない。

そのくせ、よほどでないと人を家に招きたいとも思わない。
自宅は自宅として好きに過ごしたい。しかももともとが出不精。
なんだろう、この矛盾。

そんなことを、日々つらつらと考えて、ちょっと見えてきた。

欲しいのは、私的財産としての不動産ではなく、
半私的半分オープンな知的・美的な交流がはかれる「場」や、
もっと言えば「機会」なのではないか。


◇◇◇

「場づくり」「居場所」「サードプレイス」関係の本や記事はちょこちょこ読んでいる。

この本もその一つ。
熊倉敬聡ほか『黒板とワイン もう一つの学び場「三田の家」』(慶應義塾大学出版会 2010)


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慶應の先生方が、三田のキャンパス近くの古い一軒家を借り受けて、
学生、教職員、地域の方、卒業生などが集う「インターキャンパス」として活用した記録。
非常に多くの人が関わり、手を入れ、外に開き、交流した様子が見て取れる。

各曜日の「マスター」(慶應の教員)が、その曜日の運営を任される。
留学生と日本人学生の交流の場とする曜日もあれば、ゼミ活動主体の曜日もある。
学生や教員が企画する特別イベントを開く日もあれば、特に何も予定されない日もある。

普通の民家であることは、教室における学生や教員間の緊張を解く効果があるようだ。
マスターや料理好きな人が腕を振るい、おいしいものを一緒につくり、食し、片づけるなかで
教室では出てこない本音が聞けることもあるという。

ただ、そうした時間・空間を通常の大学の業務と別に運営することは、
刺激的で楽しい半面、負担や疲労も生じさせ、マスターが疲れてお休みする日もあったという。
そんな正直な感想も記されているところが参考になる。

(※「三田の家」は今はないとのことである)


◇◇◇

「三田の家」のこと、この本のことは、
東京でサードプレイスづくりを実践されている方から教えていただいた。

一年ほど前、冒頭に書いたような夢想を書いた本ブログの記事をその方がご覧になり、
その方が京都にお持ちの建物で、そうしたことをしませんかと声をかけていただいた。

以後、ほかの方も交えて、メールや現地でのんびりペースであれこれお話をしてきた。
最近は、オーナーたちと場づくりの参考になるところに見学に行くことも増えてきた。

見学先では、どうやって運営しているのか、誰を対象にしているのか、
収益は、所有者は、活動時間は、広報は、といった話もうかがうが、
それをきっかけにいろんな話題が飛び出し、
その人知ってますよとか、あら同じ大学の出身ですねとか、
○○もいいですよとか、××はステキですよねなどと話が弾み、
新しい世界や、新しい人たちと繋がっていくこと自体がまた楽しい。

実は、そのこと自体が既に、私の欲する「場」なのではないかと思うようになっている。

◇◇◇

と書くと、いやいやそれで満足してもらっては困りますよ、
建物そのものを活用してほしいんですよ、と言うオーナーの声が聞こえてきそうである。

わかっていますよ、空間を持っているからこそできることがありますよね。
建物や土地自体のもつ磁力が人を呼ぶことも、
そこを媒介として新たな出会いが化学反応を起こすことも楽しみですから。


というわけで、サードプレイスづくり、みんなであれこれあれこれ考えながら、
京都は衣笠の地で、夢想段階から計画段階、実行段階へと移りつつあります。





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# by chekosan | 2017-02-15 12:01 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)