中・東欧、ロシアのこと&大学教育のことを発信します


by chekosan

これも長く寝かしていたディスク、「ハンナ・アーレント」をようやく観ました。

日本公開当時、中高年層を中心にヒットしているという報道を見ました。
アーレントは「20世紀最大の思想家」と呼ばれ、翻訳書もたくさん出ていますが、
アーレント自身を描いた映画がヒットするというのは意外でした。

今回観てみて、なんとなくわかりました。
まったく派手さやドラマティックな展開はないのですが、
じわじわと効いてきて、もう一度見ようかなと思わせる映画なのです。

特に、アーレントが友人たちと議論する場面や、最後の講義(8分間の演説)シーンは、
思わずメモを取るようなセリフが続きます。


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話は、1960年にナチスの幹部の一人だったアドルフ・アイヒマンが潜伏先のアルゼンチンで捕まって、
イスラエルで裁判を受けることになったところから始まります。

ユダヤ人であるアーレントはドイツでハイデッガーの薫陶を受けます。
しかしハイデッガーはナチスを支持。
アーレントはフランスで一時抑留されますが逃亡に成功し、
亡命先のアメリカで優れた著述家、思想家として活躍します。

アイヒマン逮捕を知ったアーレントは、イスラエルに飛んで裁判を傍聴し、
思考に思考を重ねて、2年をかけて記事にします。

ところが、その考察がナチス擁護であると捉える人が多く、大波乱を起こします。
夫や友人や秘書、記事を掲載した「ニューヨーカー」誌編集長や学生たちは彼女を支持しますが、
読者あるいは読んではいないけど気に食わないと手紙を送ってくる人々、
彼女を裏切り者として絶縁する古いユダヤ人の友人や大学の同僚の批判や非難に、
強い哲学者アーレントも疲弊を隠せなくなります。

それでも力を振り絞って学生たちに「考えること」の大切さを熱弁するスピーチは圧巻です。

「理解を試みるのとゆるしとは別である」「書く者には理解する責任がある」
「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走る」
「“思考の風”がもたらすのは知識ではない。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力である」
「私が望むのは、考えることで人間が強くなること。
 危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

◇◇◇

ディスクには特典映像がついていまして、これがまた興味深いものでした。

アーレントという人物を映画にするにあたっては、師であるハイデッガーとの恋や、
フランスでの抑留体験、亡命などを取り上げることもできたのですが、
あえてそこは避け、私たちが彼女から受け取ったもっとも重要なもの、
すなわち彼女の思想を表現することを追求したのだそうです。

それが一番あらわれるのがアイヒマン裁判をめぐる論争でした。
アイヒマン裁判は映像ですべて記録されているのですが、
制作者たちは、200時間に及ぶ映像をすべて見て、
アーレントの著作や書簡集や伝記を読み込み、関係者に会って構想を練ったそうです。

そして、同時に哲学者といえど机の前でタイプライターを叩いているばかりでない、
ひとりの人としての人生も描こうと、夫や友人との交流や会話、
教員としての仕事のシーンなどもたくさんちりばめたそうです。

その狙いは当たったと思います。
友人たちとのパーティや会話、夫との仲睦まじい様子、若い秘書との信頼関係、
新学期までに授業準備をしなくてはと必死な様子、
学生の憧れと尊敬のまなざしを受ける様子がたいへん印象的でした。

特典映像の監督インタビューの最後、
「アーレントのことはいまだに嫌うユダヤ人も多い、
 彼らが発言すれば論争になるかもしれない、論争は歓迎する」
という発言もカッコイイ!

ちなみに、この映画、監督、制作、脚本が女性です。
ああなるほどという感じがします。やはり女性の描き方が自然でした。

◇◇◇

にしても!

まあ~~~よく煙草を吸う! 
実際にアーレントはヘビースモーカーだったそうですが。

アーレントだけでなく当時はみんなパカパカ吸っていたようですね。
この時代を取り上げた映画では、喫煙シーンが多いですね。
戦後、ナチスを追い詰めたドイツの検事総長バウアーの映画なんかでも
スパスパ吸いまくりでした。
http://chekosan.exblog.jp/26583987/

ただ、バウアーの映画でも若手は吸ってませんし、
アーレントの映画でも、親友メアリーが「煙すぎる」と言うシーンがあるので、
みんながみんなではなさそうですが…

そういえば、、、院生時代に出ていた西洋政治思想の大家W先生の授業もそうだった…
先生の研究室で開かれていたのですが、喫煙率高かったなあ。
なにか関連性があるのでしょうか!?
ま、いまは大学内は全面禁煙、個人研究室といえど禁煙になっていますけどね。 

◇◇◇

本筋とはどんどん離れていきますが、60年代のファッション、いいですね。
アーレントの親友で作家のメアリー・マッカーシーのスーツやドレスがすごくいい。
講義室を埋め尽くす学生たちも古き良きな感じでいいです。

このメアリー役の女優さんはイギリス出身でイギリスの演劇学校で学んだ人で、
アメリカ人作家という役どころなので、英語がクリア。

対して、アーレントと亡命知識人たちはドイツ訛りということになっているので、
なんかさっぱり聞き取れませんでした… (-_-;)





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# by chekosan | 2017-02-25 17:00 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

2017年第8弾。実話をもとにした映画です。
同志社の授業で受講生から教えてもらってディスクを買っていながら一年経ちました。

「黄金のアデーレ」は、19世紀末から20世紀初頭に活躍したグスタフ・クリムトの名画です。
絵のモデルであるアデーレはウィーンの裕福なユダヤ人一家の一員で、芸術家のパトロンでした。

アデーレ自身は若くして病気で亡くなるのですが、そのあとにナチスがオーストリアを併合し、
ウィーンのユダヤ人は過酷な迫害を受けます。
名誉を傷つけられ、財産を没収され、強制収容所に送られていくのです。

アデーレの夫や姪たちも命からがらウィーンを脱出します。
アデーレの姪であるマリア・アルトマンは年老いた両親を残し、
夫とともに決死の脱出を試み、着の身着のままでアメリカにたどり着き、一から生活を築きます。

1998年、オーストリアはナチスが没収した作品を元の所有者に返還する法律を制定します。
マリアは、オーストリア政府を相手取り、一族の思い出の品であるアデーレの肖像画を返還するよう、
友人の息子を弁護士として雇い、訴訟を起こします。

この若い弁護士は、やはりオーストリアからアメリカに逃れた著名な作曲家シェーンベルクの孫です。
青年の曾祖父母はトレブリンカ収容所で亡くなっています。

はじめは乗り気でなかった青年は、お金のためにこの件に着手しますが、
そのうちに出自を自覚し、自らの意思で絵の返還に奔走するようになります。

返還法が制定されたとはいえ、アデーレの肖像画はオーストリアのシンボル的絵画、
オーストリア政府はなかなか返還に応じません。
何年もの歳月をかけてマリアと弁護士は訴訟を続け、とうとう絵はマリアの元に還るのでした。

その後、マリアは他の相続人への遺産分配の必要から、一般公開を条件に絵を売却します。
入手したのは、化粧品会社エスティ・ローダーが開設した美術館ノイエ・ガレリエです。
いまはニューヨークのこの美術館に展示されているとのことです。


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◇◇◇

映画のなかで、オーストリアの人々が、街中にナチスの旗を掲げ、
ドイツ軍に敬礼をして歓迎するシーンが出てきます。

ナチスによるオーストリア併合によって、ユダヤの人々はさまざまな権利をはく奪され、
財産を没収され、出国しようにもできなくなっていきます。

街頭では、大勢の市民がユダヤ人の人々を取り囲んで笑いながら
帽子をとったり髭を剃ったりして、屈辱を味合わせる場面があります。

主人公はそこに居合わせながら、何もできず逃げ去らざるを得ない。
非常に胸の痛むシーンです。

しかし、ナチスドイツのオーストリア併合についてオーストリア国内で歴史を見直す機運、
つまり「オーストリアは一方的な犠牲者である」という認識を再検討する気運が高まってきたのは
比較的最近の話であったと思います。
美術品などを返還する法律ができたのもまさにその流れでしょう。

そうした経験から、主人公は、返還の手続きのためにウィーンに行くことになっても、
かたくなにドイツ語を話そうとしません。

いま穏やかに暮らしているから、過去のことだからという問題ではないのです。

普通の生活を暴力的に中断させられ、家族や友人の命や財産を奪われた人々にとって、
奪われたものを取り戻すことは、金銭だけの問題ではないことは理解したいものです。

私が何度もお世話になったチェコのホストマザーも、
ロシア語やドイツ語は、話せるが使いたくないと、はっきり言っていました。

支配被支配の関係から生じた名誉の毀損や屈辱的な扱いに関することは、
放置していれば溶解するというものではなく、
共感、和解、再評価というプロセスが必要であると思います。

◇◇◇

そうしたことを踏まえて、しかし、
アデーレの肖像画がニューヨークに行ってしまったというのは残念な気がします。

買い取ったローダー氏はナチスによる没収財産の返還にも尽力しているとのことですが、
クリムトは世紀転換期のウィーンを代表する芸術家で、
彼が率いた芸術家の一派「分離派」の作品はやはりウィーンにあってほしい。
1992年に、ウィーンでクリムトやシーレの作品を直接観たときの感動を思い出して、
この映画の結末に感動しつつも、悲しく寂しい気がしたのでした。

◇◇◇

映画で、主人公と弁護士青年が、最初にウィーンに行って空振りに終わったあと、
無駄な旅にしないためにとホロコースト犠牲者を追悼碑を訪ねるシーンがありました。

昔にウィーンに行ったとき、かなりいろいろまわったつもりだったのですが、
こんな建物はなかったのではないかなと思ったら、2000年にできたものでした。
次回、ウィーンに行くことがあったら訪ねてみたいと思います。

◇◇◇

この映画、テーマとしては考えさせられるものを含んでいるのですが、
ちょっと演出が軽めというか情緒的すぎるというかテレビドラマ的なシーンも多いです。

が、主人公(ヘレン・ミレン)はたいへん!!魅力的でした。
おしゃれで強くてチャーミングで自立した女性!
年齢を経てもこんなに素敵な老婦人でいられたらいいなあと惚れ惚れしました。


そして、主人公と弁護士を助けるオーストリア人ジャーナリストを演じた俳優さん!
なんと「グッバイ、レーニン!」の主演男優さんでした。

この映画、東ドイツの消滅(東西ドイツの統一)と家族愛をからめていて大好きなのですが、
あの頼りなげな青年が、こんな貫禄たっぷりに!とびっくりしました。






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# by chekosan | 2017-02-24 12:26 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)
広い意味での「学び」「学習」「知識」について解き明かしてくれる本。
帯にあるように、「学ぶことの大切さ、学ぶ方法を学ぶ大切さがわかる」本であるが、
効率的に「勉強のできる子」や「天才児」を育てるためのノウハウ本ではない。

著者の専門である乳幼児の語彙の習得の観察実験から得られた知見の部分がやはり面白い。

子どもは、胎児のころから言葉を聞いて、音として認識する。
そして、まずは母語で使う音の要素を聞き分けて取捨選択する。
そのうちに単語というものがあることを発見し、それらを類推していく。

そして、自分で言葉というものの枠組みを作り、
そこからの類推で新しい言葉や概念を理解していくのである。
言語のシステム、構造自体を自分で考えて発見し、
言葉を知らないところから、言葉を習得していくのである。

◇◇◇

乳幼児の世話は忍耐や苦渋の連続で、幸福感に浸れる時間などそのごく一部であるが、
言葉の獲得の過程、概念を獲得していく過程を観察できたのは実に面白かった。

絵本を読み聞かせたり、字を教えたり、勉強を教えたりといったいかにもな場面よりも
もっともっと前の段階で、赤子は自分で概念や言葉を体得していく。
赤子といると、ごく日常的な場面でそれが出現するのを見ることができるのである。

何かを飲んで、「おいしい」という感覚と言葉が一致したのを赤子本人が確認した、
その瞬間を明確に見てとったときはエキサイティングであった。

赤子が、この快い感覚を「おいちぃ」と表すのでちゅね、そうでちょ、わかりまちたよ、
といわんばかりの自慢げな表情をして、その言葉を発したのである。

たぶん、赤子の初めての言葉ではなかったと思う。
が、口真似として音を発するのではなく、
感覚・概念・言語が繋がっていることを赤子自身が発見した瞬間だったことで、
初めての言葉よりも、非常に強く印象に残っている。

(口真似だけなら、まだ寝っ転がってるしかないような時期に「おかあさん」とクリアに発声して、
 夫と、ぞぉぉっとしたことがあった。それは音として発しただけで言語の獲得とは違ったと思う。)

だから、男性の友人や後輩、特に研究者、教育関係者の仲間には、
赤ちゃんをよくよくお世話すべしと忠言する。
人間が概念や言葉を習得する過程をつぶさに見られる機会はそうないのだから。


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◇◇◇

本書では、専門家(棋士、音楽家、スポーツマン、バレエダンサーなど)に協力を仰ぎ、
どういう場面で、脳のどの部分がどういう活動をするのかを実験するなど、
熟達者や超一流とみなされる人々の「学び」や「学習」の謎にも迫っている。

何かに特別に秀でた人に対して、私たちは「才能」「天才」という曖昧な言葉をあてはめ、
天賦のもの・遺伝だと済ませがちだが、その何かに秀でるための特定の遺伝子があるわけではない、
IQの高い低いもあまり関係がない、という話も出てくる。

それよりも、
断片的な知識をぺたぺた貼り付けていくことが知識の獲得であるとする「知識観」から脱すること、
「生きた知識」とは、常にダイナミックに変動するシステムであることを理解すること、
集中して訓練すること、その訓練を忍耐強く続けること、
その経験を通して大局観を養うことが大事であることが明らかにされる。

では、家庭で親は何をすべきか、学校教育において何をなすべきかについても触れられている。

どちらかというと、幼少期の子どもに接する人が心にとめるとより良い話が多いが、
育ってしまった子どもや大人にも、もちろん参考になる。

◇◇◇

そう、いくら赤子~幼児期に言葉が早かろうがとっきゅうでんしゃをすべて言えようが、
そんなことは「天才」の印でもなんでもない。
俯瞰すること、地道な努力、集中力、継続することこそが抜きんでた才を育てるのである。
そんなことも実感・痛感する今日この頃である。orz





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# by chekosan | 2017-02-23 17:28 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

斎藤環氏は精神病理学者。サブカルチャー批評などでも活躍している。

本書は、斎藤氏と6人のゲストとの対談を収めている。
一つのテーマをめぐって、さまざまなジャンルの専門家と語るというスタイルは面白い。
よそ様でもそういう本の書評を書かせていただいたが、思いがけない知識や視点を得られ、お得である。

→関西ウーマン 信子先生のおすすめの一冊 『人はなぜ不倫をするのか』(亀山早苗)
 https://www.kansai-woman.net/Review.php?id=201061

本書のテーマは、日本の9割を占めるヤンキー的なるものについて。

村上隆氏(現代アーティスト)とはアートについて、
溝口敦氏(作家、ジャーナリスト)とはヤクザや暴力団とヤンキーとの関係、
デーブ・スペクター氏(プロデューサー、タレント)とは芸能界におけるヤンキー性について、
與那覇潤氏(学者、日本近現代史)とは政治、国家について、
海猫沢めろん氏(文筆家)とは若者から見たヤンキー分析、
隈研吾氏(建築家)とは建築について、それぞれ語っている。


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斎藤氏がヤンキー文化の特徴として挙げるのは次のようなことである。

 バッドセンスな装いや美学、「気合い」がすべて、頭や言葉を使わない行動主義、
 家族や地元といった中間団体に偏った愛=「絆」、個人主義の欠如、
 基本的にはコミュニケーションが得意だが中身はない、
 「夢」や「ポエム」を熱く語るが、その「夢」は実現可能な範囲にとどめておくリアリスト。

本文中には、そうしたものを象徴するキャラクターや作品、人物も出てくる。
あまりに遠慮なく、それらについて面白おかしく述べられているので、
ー いや真面目に語っているのかもしれないが、
  ヤンキー的表現(例えば「○○上等!」とか)はそれ自体が可笑しさを含んでいるのでー
しばらくは笑い飛ばしながら、うんうんあるある、と読んでいた。

なのだが、本書で例示されている具体的作品名やキャラクターや人物を列挙することには躊躇する。
なぜなら、それらを好む人、支持する人が固有名詞で何人も思い浮かぶからである。

斎藤氏が、日本の「9割」がヤンキー文化を受け入れているという主旨のことを書いているとおり、
ここで挙げられているようなヤンキー文化を無批判に好きな人はいっぱいいて、
そうした人の多くは、自分(たち)をヤンキーだとは思っていないだろうと思う。
それどころか、そんなことを考えたこともないだろう。

そんな風に考えたことがないということ自体が問題を孕んでいて、
危険性をも孕んでいると斎藤氏は論じていくのだが、
しかし、かといって、その人たちが頭が悪いとか、頭を使っていないとか、
言葉を尽くそうとしないとか、反知性主義かというと、
具体的な顔が浮かぶ私には一概にそうは言えない。そこがまた難しい。

◇◇◇

などと考えながら読み進めていくと、そのうちあらゆる現象が「ヤンキー」文化としてくくられ、
この論でいくと、私も立派にヤンキー精神を備えているという結論に至ってしまった。
なるほど、あれもそれもヤンキー精神に含めるなら、9割の人は該当するわ… (^^;

斎藤氏自身も、ヤンキー的なるものを内在していることを自覚しているというし、
ヤンキー精神がよい方向に働く場面も多々あると言っている。
すべてを否定的に断罪しているわけではない。

なのだが、もう一歩二歩踏み込んで、ではどうする?という指針を打ち出してほしい気がする。
それは精神病理学者の役割ではないのかもしれないが。

昨日読み終えた平田オリザ氏の具体的実践からの提言が響いただけに、
はじめ楽しく、あと??  という感じは否めない。

とはいえ、一気に読める面白さがあり、細部でいろいろ参考になる本ではあった。

◇◇◇

平田オリザ氏の本。『下り坂をそろそろと下る』の感想はこちらに。
http://chekosan.exblog.jp/26667213/



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# by chekosan | 2017-02-21 17:21 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

平田オリザ氏は世界で活躍する劇作家、演出家で、教育者である。
先日、京都で開かれた国際教養学会の特別講演を聞きに行った。


題目は「教養としてのコミュニケーション能力」。
「グローバルコミュニケーション力」をつけることが急務だと言われているが、
コミュニケーション力とは一体何なのか、
エレベーターで外国の方と一緒になったときにハローと英語で話しかけることなのか。
いやそうではない、人に話しかけるということは、その地の文化や、その人の社会階層的なもの、
居合わせた人たちの関係性やその場の状況によって変わるものであろう、というお話から始まった。

では、どういう状況であれば、人はどう振舞うのか。
ちょっと想像してみること、そして、他人の状況や立場に思いを致すこと、
まったく一体になろうとしなくてもよい、共感しようとすること、
その共感の幅を広げることがコミュニケーションであり、異文化理解である。

平田氏は、演劇を取り入れたワークショップや地域活性化支援で全国津々浦々を駆け巡り、滞在し、
現地の子どもや大人と交流を重ねている。それこそ離島やへき地の小さな学校にも足を運ばれている。
その経験や手腕を買われて、いくつもの大学の新学科創設や入試改革にも携わっておられる。

本書では、そうした各地での実践内容や成果について詳しく紹介し、
日本の国のありかた、地方のまちづくりや、これからの教育のゆくえについて論じている。


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◇◇◇

私たちはすでに下り坂を下りている。日本はアジア唯一の先進国ではない。
この先、人がどんどん増え、右肩上がりに経済が拡大していくことは望めない。
その事実や寂しさに向き合うことを恐れる人々は、人を妬み嫉み憎むことでごまかしている。


地方から人が出て行ってしまう、新しい人が増えないという焦りは募るものの、
その対策はいまだに工場誘致であったり、住宅建設であったりする。

しかし、地方から若い世代が出て行ってしまうのは、実は雇用が少ないからという理由ではないという。
「つまらない」からであるというのである。文化的な刺激がない、偶然の出会いがないからである。

それなら、つまらなくないまちにすればよい、センスを磨けばよい。
選んでもらうまちをつくるには、自己肯定感を引き出すような、広い意味での文化政策と
ハイセンスなイメージづくりが必要なのである。

とりわけ、子どもが小さいころから本物に触れる機会を設けることが重要である。
それもシャワーのように浴びせかけないと、
地方の子どもたちは、いろんな機会が溢れている都市の子たちに太刀打ちできない。

なぜなら、これから必要とされるのは単純な知識量ではないからである。
言われたとおりに動くだけならば、代わりはいくらでもいる。
代わりは人間でさえない。AIで置き換えられるのである。

平田氏は、問題解決能力よりもさらに、問題を発見できる能力が必要だと言う。
それには幅広い視野と、人の状況に思いをはせる力が必要なのである。

ところが、そうした能力やマナーや振る舞い、
ー つまりそれこそがコミュニケーション能力なのだが ー

それを養うには、20歳ごろまでの環境が大きく影響するのである。

小さいころから本物を見たり触れたり体験したりすること、
それによって身体感覚(例えば味覚やセンスなど)を養うには、しかし、
首都圏と大都市圏、地方都市と都市でない地域で、相当に機会の差がある。
そのような「文化資本」の地域格差は何倍どころか、百倍くらい違うという。

さらに、「文化資本」は、家庭の経済状況や親の文化的な習慣にも大きく左右される。
地域格差と経済格差が掛け合わされると、圧倒的な差ができてしまう。

では地方には救いがないのかというとそんなことはない。
本書で平田氏が紹介している自治体や大学などは、いずれもかなりハンデがある地方だが、
新しい文化の拠点、新しい試みが成功しているところとして、
日本中から、世界から、注目を集めている。

◇◇◇

以上は、私がもっとも惹かれた部分を簡単に記したものなので、
詳細はぜひ本書を読んでいただきたい。
わかりやすい文体で、さらさらと読むことができる。おすすめの一冊。







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# by chekosan | 2017-02-20 19:10 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

ある表現方法そのものが好きという場合と、あるジャンルに限って好きという場合があると思う。

私の場合、映画は後者である。
娯楽として楽しむ趣味はなく、特に映画館での鑑賞は苦手であったのだが、
最近、関心のある地域や時代を理解する一助として観るようになった。

研究や教育のネタとして観ているので、これはと思うものに出会えば学生にも紹介したくなる。
紹介すると「ぜひ観たいです」「観ました」「観たことがあります、感動しました」
「先生の紹介が上手なのでどれも観たくなりました」といった嬉しい感想をもらえる。

さらには、「○○も面白かったです」「××も同じようなテーマでした」
「今度△△観に行きます」という情報もどんどん寄せられる。

そうすると、教えてもらった作品も見なくては!と思うようになる。
観れば、作品の作られた経緯や歴史的背景をもっと理解したくなる。

そうして、映画を紹介している記事や本なども集めるようになった。
人間、年をとっても新たなものに目を向けられるものだなあと思う。

そんなわけで、この本。村瀬広『映画は戦争を凝視する』(新日本出版社 2016)。

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映画好きさんと違って、あるジャンルに限って厳選したものを観たい私には大変参考になる本である。

この20年ほどの間に公開された、戦争に関する名作ばかり55作品を集めていて、
一作品2見開き4ページで、あらすじや背景、みどころ、考察などがコンパクトにまとめられている。

どの作品も観たくなるものばかりなのだが、私の教育・研究分野に特に関わりが深く、
特に観たいと思ったものをリストアップし、順次、感想をアップしていきたい。
太字はそのなかでもとりわけ気になる作品。

第2章「子どもを襲う戦争」より
・「縞模様のパジャマの少年」 … 強制収容所の子どもとナチス高官の子どもの話
・「命をつなぐバイオリン」 … ウクライナの2人のユダヤ人音楽天才児の運命
・「さよなら、アドルフ」 … ナチスの子どもたちのその後
・「あの日の声を探して」 … チェチェン紛争と子どもたち

<観た作品>
・「ふたつの名前を持つ少年」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/24898337/

第4章「ヒトラーとナチズム」より
・「マイ・ファーザー」 … ナチス戦犯(メンゲレ)の父と息子
・「ヒトラー 最期の12日間」 … 総統閣下シリーズはいろいろ見ているのですが(^-^;
・「シャトーブリアンからの手紙」 … ドイツ占領下のフランスの悲劇
・「パリよ、永遠に」 … パリはいかに破壊から免れたか

<観た作品>
・「顔のないヒトラーたち」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25950775/

第5章「ホロコースト・強制収容所の諸相」より
・「灰の記憶」 … 収容所専属ユダヤ人労働者の反乱
・「ソハの地下水道」 … 普通の人がなぜユダヤ人を救ったのか
・「遥かなる帰郷」 … プリーモ・レーヴィの『休戦』の映画化
・「ハンナ・アーレント」 … だいぶ前にDVDを買っているのに、、、

第6章「戦争に病む社会と人間」より
・「パーフェクト・サークル」 … ユーゴ紛争、サラエボ戦争の実相
・「消えた声が、その名を呼ぶ」 … アルメニア人の悲劇に踏み込む
・「東ベルリンから来た女」 … 東西ドイツの知られざる関係 
   ドイツ行きの飛行機で上映していたのに寝てしまった、、、
・「ドレスデン、運命の日」 … 芸術都市がなぜ爆撃されたのか

<観た作品>
・「カティンの森」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25006393/
・「善き人のためのソナタ」 … 感想はこちら http://chekosan.exblog.jp/25224694/







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# by chekosan | 2017-02-19 00:44 | 本、書評、映画 | Trackback | Comments(0)

サロン的空間をやたら夢想していた時期があった。

家に収められない本を並べ、趣味の合う人と話したり食べたり音楽を聴いたりしたいなあ、
それもできれば雰囲気のあるちょっと古い建物とか、と。

建築士と家をつくり、その家を住みこなしていくことで自分の空間を持つ欲はいったん満たされた。
日々の仕事や家事育児に忙殺され、しばらく別宅サロン構想は頭から遠のいていた。

勤務先にも研究室を持つようになって、
本を収めたり、業務上・教育研究上の相談をしたりする空間には困らなくなった。

真夏の数日間、あああ避暑地に別荘が欲しい! 冷房のいらないところで知的活動をしたい! 
そこで人と小さな集まりをもったら楽しそう! と猛烈に別荘欲が募ることはある。

「第三の居場所」「サードプレイス」といった系の言葉や活動の事例にも異様に惹かれる。

が、空間としての、物体としての不動産を、自宅と別にどうしても私有したいのかというと、
どうもそれとは違うように思えてきた(余裕があれば持つことにやぶさかではないが)。

だいたい私は、人が少なすぎるところとか、何もないところとか、
車でないと行けないようなところにじっとしてはいられない。

そのくせ、よほどでないと人を家に招きたいとも思わない。
自宅は自宅として好きに過ごしたい。しかももともとが出不精。
なんだろう、この矛盾。

そんなことを、日々つらつらと考えて、ちょっと見えてきた。

欲しいのは、私的財産としての不動産ではなく、
半私的半分オープンな知的・美的な交流がはかれる「場」や、
もっと言えば「機会」なのではないか。


◇◇◇

「場づくり」「居場所」「サードプレイス」関係の本や記事はちょこちょこ読んでいる。

この本もその一つ。
熊倉敬聡ほか『黒板とワイン もう一つの学び場「三田の家」』(慶應義塾大学出版会 2010)


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慶應の先生方が、三田のキャンパス近くの古い一軒家を借り受けて、
学生、教職員、地域の方、卒業生などが集う「インターキャンパス」として活用した記録。
非常に多くの人が関わり、手を入れ、外に開き、交流した様子が見て取れる。

各曜日の「マスター」(慶應の教員)が、その曜日の運営を任される。
留学生と日本人学生の交流の場とする曜日もあれば、ゼミ活動主体の曜日もある。
学生や教員が企画する特別イベントを開く日もあれば、特に何も予定されない日もある。

普通の民家であることは、教室における学生や教員間の緊張を解く効果があるようだ。
マスターや料理好きな人が腕を振るい、おいしいものを一緒につくり、食し、片づけるなかで
教室では出てこない本音が聞けることもあるという。

ただ、そうした時間・空間を通常の大学の業務と別に運営することは、
刺激的で楽しい半面、負担や疲労も生じさせ、マスターが疲れてお休みする日もあったという。
そんな正直な感想も記されているところが参考になる。

(※「三田の家」は今はないとのことである)


◇◇◇

「三田の家」のこと、この本のことは、
東京でサードプレイスづくりを実践されている方から教えていただいた。

一年ほど前、冒頭に書いたような夢想を書いた本ブログの記事をその方がご覧になり、
その方が京都にお持ちの建物で、そうしたことをしませんかと声をかけていただいた。

以後、ほかの方も交えて、メールや現地でのんびりペースであれこれお話をしてきた。
最近は、オーナーたちと場づくりの参考になるところに見学に行くことも増えてきた。

見学先では、どうやって運営しているのか、誰を対象にしているのか、
収益は、所有者は、活動時間は、広報は、といった話もうかがうが、
それをきっかけにいろんな話題が飛び出し、
その人知ってますよとか、あら同じ大学の出身ですねとか、
○○もいいですよとか、××はステキですよねなどと話が弾み、
新しい世界や、新しい人たちと繋がっていくこと自体がまた楽しい。

実は、そのこと自体が既に、私の欲する「場」なのではないかと思うようになっている。

◇◇◇

と書くと、いやいやそれで満足してもらっては困りますよ、
建物そのものを活用してほしいんですよ、と言うオーナーの声が聞こえてきそうである。

わかっていますよ、空間を持っているからこそできることがありますよね。
建物や土地自体のもつ磁力が人を呼ぶことも、
そこを媒介として新たな出会いが化学反応を起こすことも楽しみですから。


というわけで、サードプレイスづくり、みんなであれこれあれこれ考えながら、
京都は衣笠の地で、夢想段階から計画段階、実行段階へと移りつつあります。





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# by chekosan | 2017-02-15 12:01 | 読書記録 | Trackback | Comments(0)

「関西ウーマン」に月一回連載させていただいている書評、
今月は、アメリカ発祥の人気プレゼンテーションイベント・TEDの提供するプレゼンテーションのコツ。

細かい技術や注意点もとても参考になります。

でも一番大事なのは、語るに値するアイディア(思い)と、
伝えようとする熱意と、聞いてくれる人に対する敬意です。

本文はこちら。 https://www.kansai-woman.net/Review.php?id=201070



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# by chekosan | 2017-02-11 18:00 | 書いたもの | Trackback | Comments(0)

2016年度秋学期に初開講した「特殊講義 ロシア・東欧の政治と社会」@同志社大学法学部、
成績も授業講評もすべて終えました。

この科目は、春学期開講の「ロシア・東欧地域研究」の発展形にするつもりで、
セット科目ではないが「ロシア・東欧地域研究」の内容を踏まえて進めるとシラバスに書きました。

*「ロ・東欧地域研究」は3・4年生対象科目なので、それを修めていることを前提にすると、
 履修の機会が減じてしまうことになるので、次年度はその文言は省き、門戸を広げました。さてどうなるか。


「ロ・東欧地域研究」も密にコミュニケーションをとる授業にしましたが、
特殊講義は完全にゼミ形式で、とにかく本を読み、語り合う場にしました。

あまりにハードなシラバスにしたため、受講生がほとんどいないという事態になりましたが(笑)
しかし、それだけにたいへん意欲的な学生たちだったので、どんどん読み進めていくことができました。

今期、読んだ本は次のとおりです。8作品、文庫本の巻数を数えると17冊になります。

・ジョージ・オーウェル『動物農場』
・    同     『一九八四年』
・西川伸一『動物農場の政治学』 以上のまとめは→ http://chekosan.exblog.jp/26307633/
・村上春樹『1Q84』全編  http://chekosan.exblog.jp/26395672/
・ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』 http://chekosan.exblog.jp/26418847/
・   同    『冗談』 http://chekosan.exblog.jp/26437548/
・   同    『不滅』 http://chekosan.exblog.jp/26497899/
・   同    『小説の技法』  http://chekosan.exblog.jp/26553773/
・ヤロスラフ・ハシェク 『兵士シュヴェイクの冒険』 http://chekosan.exblog.jp/26585240/


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村上春樹と『動物農場』は比較的読みやすいですが、ほかはすんなりとはいきません。
このペースで読んでいくのは、けっこうきつかったのではないかと思います。

毎回、発表者にレジュメを作ってきてもらい、はじめにざっと報告をしてもらいました。
そのあとはみんなで好き勝手にあれこれしゃべっていきます。

初回に院生アシスタント君が報告をしてくれたのが良いお手本になったと思います。
とはいえ、レジュメや発表には決まった書式や項目や分量は設けませんでした。

ですので、発表者によって目をつけるところ、発表の仕方がかなり違いました。
そのことがまたお互いの刺激になったと思います。

全員が感想に書いたのは、自分が担当した作品はやはり読み込み方が違ったということです。
そうだろうなあと思います。

どこを取り上げて、どう再構成するか考えて準備するのは、読むだけとは全然違います。
私はほとんどの作品が再読でしたが、それでも読んでメモをとるだけで相当きつかったです。

報告後、流れにまかせて語り合うときの分析や感想にも、個性が出ていたと思います。
思想や哲学、文学に関心を持つ院生君はそうした観点からの見解を述べてくれましたし、
女性陣はジェンダー的な観点から登場人物を品定め(?)していたように思います。

クンデラの作品では、学生陣と私とで、実感に差があるように見受けられました。
なにしろクンデラの作品は、山あり谷ありの中年男女の生々しい話が多いですので。(^-^;

でも、だからといって若い人にはわからないということではありません。
学生たちは学生たちで、若者という人生の段階でこその受け止め方で、
自らにひきつけて考え、咀嚼し、糧にしようとしてくれていました。

ああこれからの人たちってまぶしい! 私はすっかりスレてしまったわなどと思ったり。
まあそれは半分冗談ですが。

そんな感じで、雰囲気はゆる~く楽しく、ペースは速く。
私には、あっという間に学期が終わったように感じました。

私のFacebookやブログでの報告があまりに楽しそうだったらしく、
何人かの教員仲間や読書友達が、どんなふうに進めているのかと聞いてきてくれました。

今期の場合、

シラバスでかなりハードな設定を提示したこと、
それでもと覚悟をもってきた学生たちなので意欲と能力が優れていたこと、
少人数ゆえ、ハードであってもアットホームにできたこと、
院生君が自ら楽しんで授業に参加し、手本となり、助言者となってくれたこと、
おかげで、先生はニコニコ優しくいられたこと(笑)、

これらが良い作用をもたらしたと思っています。

来年度は、履修の前提条件を変更したので、違った様相を見せるかもしれません。
そのときはそのときで、別の刺激をもらえると思います。
既に今から楽しみです。








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# by chekosan | 2017-02-10 23:49 | ロシア・東欧地域研究@同志社 | Trackback | Comments(0)

イギリスで女性参政権を求めて闘った女性たちの物語「未来を花束にして」を観てきました。
実話や実在の人物をもとにした社会派映画です。制作も女性が中心です。

ときは1912年。第一次世界大戦の直前のイギリス、ロンドンが舞台です。

主人公は洗濯工場で働く労働者階級の女性。まだ24歳。かわいい男の子が一人います。
夫も同じ工場で働く若い青年です。優しい男性です。


主人公は、この工場で生まれました。当時の洗濯工場の労働環境は過酷で、女性労働者は短命でした。
主人公の母もこの工場で働いていましたが、若くして亡くなります。


労働者階級の女性の一生はそういうものだとされていた時代、
日中は工場で必死に働き、家出は家事育児、毎日クタクタになって働いていた主人公は、
工場長から同僚をかばったことから、同僚が取り組む女性参政権運動にかかわることになります。


最初はまったくその気はなく、偶然の積み重なりで巻き込まれた主人公でしたが、
議会の公聴会で証言をしたり、カリスマ的女性運動家に出会ったり、
仲間と知り合ったりするなかで、自分たち女性の人生を自分たちの行動で変えていく道を進みます。


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イギリスの議会政治は良くも悪くも手本であり先行事例であると刷り込まれていますが、
女性参政権ができたのは、意外にも1928年なのですね。

階級が厳然とあるというのもイギリス社会の特徴と言われますが、この時代は特にそれが顕著です。
イギリスと言えばジェントルマンの国ですが、ジェントルマンに大事にされるのはレディだけ。


上流階級や中産階級の女性は、身なりもきれいで、それなりに尊重されていますが、
それもあくまで「誰々氏の妻」としてです。男性に庇護される身としての尊重です。


労働者階級の女性になると奴隷扱いです。
主人公の工場では、女性の方が男性よりもキツイ仕事をこなし、
男性よりも長時間働いて、賃金は3分の2でした。児童労働も普通に行われています。


労働者の権利なども整備されていません。時間外労働を課されたり、
上司のセクシュアルハラスメントが横行していたり、逆らえば簡単にクビになります。


そうした状況を改善したくとも、女性には意見を言っていく先がありません。
自分たちの代表を送るすべさえなかったのです。


つまり、何重、何層もの支配ー被支配の構造があるのです。
身分によるもの、性によるもの。


労働者階級の女性は、身分の点でも、性別の点でも、支配を受ける側になり、
もっとも過酷な状況にあったのです。


ただ、この映画で良いなと思えるのが、主人公たちが関わる活動には、
議員の妻や、中産階級の女性も、学問を修めた経済力のある女性も参加しているところです。

やはり身分の違いで、理論的リーダー、スポークスウーマン的存在、
実行部隊というような立ち位置はあるのですが、支配被支配の関係ではありません。


そうして参政権運動が展開されるのですが、これが非常に厳しい。

穏やかに主張していてもらちがあかないからと、
投石などの実力行使に訴えるグループが現れるのですが、もちろん逮捕されます。
そして、簡単に刑務所(警察の拘置所?)へと送られます。

なにしろ、政治的意図をもって集まるだけで不法とされるのです。
女性たちが公聴会の結果を聴こうと議会前に集まっているところにも、
騎馬警官がやってきて、殴る蹴るの暴行を加えて逮捕します。
しかし、悪法も法、法の遵守という観点からは、警察は正当な行為をしていることになるのです。


獄中でハンガーストライキをすると、無理やり押さえつけられて鼻からチューブで食物を摂らせるという
拷問並みの処置が待っています。


言葉で言っても聞こうとしない、それならば行動だと、活動はどんどん過激になります。
そのような破壊活動には賛同しづらいのですが、そうでもして注目を集めないと抹殺されるだけ
という状況があったことは理解する必要があります。


と書いていると、昔の話で済ませられないじゃないかと思える部分がいくつも見えてきます。

私たちが当たり前に思っている社会状況や権利も、先人が勝ち取ってきたものですが、
実はまだ達成されていなかったり、既に崩されつつあったりしているかもしれません。
いつのまにか失っている可能性もあるかもしれない。
昔はひどかった、現代に生まれて良かったと満足していてよいのか、
そんなことを考えさせられる映画です。

◇◇◇

余談。

こういう社会派映画は、プライベート空間かというくらい小さな会場で、申し訳ないくらい少人数で鑑賞することが多い。

今回の映画は、珍しくショッピングモール内のシネマコンプレックスでの上映だった。
映画館の中には12もスクリーンがあり、会場ごとに収容人数が大きく違う。
そして、いつも行く小さな劇場と明らかに客層も違っていた。


さらに、終演後、エスカレーターで日本を席巻する巨大チェーン店の内部を降りながら、
どこへ行っても同じ、やたら白っぽくて薄っぺらでチカチカする消費空間を見て、
エンタテインメント映画を否定するわけではないし、私も消費社会を享受していることは自覚しているが、
あまりにいろんな点でギャップを感じて、思考が現代日本の文化や消費行動についての方に行っちゃったのでありました。

...

いや、映画は良かったです。けっこう胸が痛む映画ですが、おすすめします。政治学の授業のネタにします。


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# by chekosan | 2017-02-08 18:09 | 本、書評、映画